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論語と算盤 / 実業と士道・天然の抵抗を征服せよ

世界文明の進歩に伴ひ、人智を以て天然の抵抗を征服し、海にも陸にも種々交通の便利を加へて、其の距離を短縮することは実に驚くばかりである、往昔支那に於ては天円地方と称して、我々の住む此の大地を方形のものと思惟せしのみならず、自国以外には殆んど他国の存在を認めなかつたのである、我国とても当初は斯かる偏狭なる見解に依りて誘導啓発せられたのであるから、会〻日本以外の国といへば、直ちに唐天竺を聯想するのみであつて、更に世界の何物たるを知らなかつたのである、されば五大洲の存在などいふことに至りては、夢想だも及ばなかつたのである、現に余の幼時に聞ける童話中にも、其の左右の翼を拡げるときは長さ三千里にも達するといふ大鵬でさへも、尚ほ且つ世界の涯際を見ることが出来ないのであると説いた程であつた。

書き下し

世界文明の進歩に伴い、人智をもって天然の抵抗を征服し、海にも陸にも種々交通の便利を加えて、その距離を短縮することは実に驚くばかりである。往昔支那においては天円地方と称して、我々の住むこの大地を方形のものと思惟せしのみならず、自国以外にはほとんど他国の存在を認めなかったのである。我が国とても当初はかかる偏狭なる見解によりて誘導啓発せられたのであるから、たまたま日本以外の国といえば、直ちに唐天竺を聯想するのみであって、さらに世界の何物たるを知らなかったのである。されば五大州の存在などいうことに至りては、夢想だも及ばなかったのである。現に余の幼時に聞ける童話中にも、その左右の翼を拡げるときは長さ三千里にも達するという大鵬でさえも、なおかつ世界の涯際を見ることができないのであると説いたほどであった。

現代語訳

世界の文明が進歩するにつれ、人間の知恵によって自然の抵抗を征服し、海にも陸にもさまざまな交通の便を加えて、その距離を縮めてきたことは、実に驚くばかりである。昔、中国では「天は円く地は方形」と称して、我々の住むこの大地を四角いものと考えていたばかりか、自国以外にはほとんど他国の存在を認めなかったのである。我が国もはじめはこうした狭い見方によって導かれ啓発されたのだから、たまに日本以外の国といえば、すぐに唐(中国)や天竺(インド)を連想するだけで、それ以上、世界がどういうものかを知らなかった。だから五大陸の存在などということになると、夢にも思い及ばなかったのである。現に私が幼いころに聞いた童話の中でも、左右の翼を広げると長さが三千里にも達するという大鵬でさえ、それでもなお世界の果てを見ることはできないのだと説いていたほどであった。

解説

章題の「天然の抵抗を征服せよ」は、交通の発達によって自然が課す距離という壁を越えていくことを指す。渋沢はまず、かつての世界観がいかに狭かったかを語る。天は円く地は四角いという古代中国の宇宙観、日本の外といえば唐と天竺しか思い浮かばない感覚。幼いころ聞いた童話では、翼を広げれば三千里という大鵬でさえ世界の果ては見えないと言われた。大鵬は『荘子』逍遙遊篇の冒頭に出る巨鳥で、ここでは世界の果てしなさの象徴として語られている。渋沢は天保十一年、武蔵国血洗島の農家に生まれた。開国前の農村の少年にとって、世界はまさに果てのないものだった。その少年が生涯のうちに世界を何度も回る人になった。この落差の大きさを最初に示すことで、章全体が一人の人生で見た文明の変化の証言になっている。

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