論語と算盤 / 実業と士道・天然の抵抗を征服せよ
東洋の諺に命長ければ恥多しと云ふけれども、輓近五十年間に於ける世界交通の発達と、海運の面積の減縮とは斯の如く顕著なるものがあつて、前後殆んど別乾坤の観あるを思へば、身、昭代に生れたる余慶として、長寿の寧ろ幸福なりしを喜ぶのである。
書き下し
東洋の諺に命長ければ恥多しと言うけれども、輓近五十年間における世界交通の発達と、海運の面積の減縮とはかくのごとく顕著なるものがあって、前後ほとんど別乾坤の観あるを思えば、身、昭代に生まれたる余慶として、長寿のむしろ幸福なりしを喜ぶのである。
現代語訳
東洋の諺に「命長ければ恥多し」と言うけれども、ここ五十年ほどの世界の交通の発達と、海の距離の縮まり方はこれほど著しく、前と後とではまるで別世界の観がある。それを思えば、良き時代に生まれ合わせた幸いとして、長生きしたことをむしろ幸福だと喜ぶのである。
解説
渋沢は慶応三年、パリ万博へ向かう徳川昭武の随行員として渡欧した。当時スエズ運河は未完成で、一行は船を降りて鉄道でエジプトを横断し、横浜出帆から五十五日でマルセイユに着いた。その運河が二年後に開通し、シベリア横断鉄道が通じ、この章を書いた頃にはパナマ運河も完成する。自分の一生のあいだに世界の距離が縮んでいくのを見た人の感慨である。「命長ければ恥多し」——長く生きれば恥も多い、という荘子由来の諺をあえて引いたうえで、それを否定する。変化の速い時代を、老いて取り残される話としてではなく、生きて見られた幸運として受け取っている。
この章句が説くこと
天然の抵抗を征服すスエズ運河命長ければ恥多し世界交通の発達