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論語と算盤 / 実業と士道・天然の抵抗を征服せよ

さて其の如く世界は広大無辺のものなれば、迚も我々の人智では容易に之を究むることの出来るもので無いとして居たのである、然るに文明の進歩と共に交通機関が発達して来た為に、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間に於ては、殆んど隔世の感がある、顧みれば千八百六十七年、那波翁第三世が在位の時に当り、仏国巴里に世界大博覧会の開かる〻に際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜より仏国郵船に乗り印度洋及び紅海を経て蘇士の地峡に到りしに、仏国人レセツプ氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、既に着手せられて居たけれども、未だ成就しなかつたが為め、一行は船を棄て〻地峡に上り、鉄道に依りて埃及を横断し、「カイロー」を経て「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めて仏国の「マルセーユ」に到着したのであつた、斯くて翌年の冬期に帰朝する時に其所を過ぎたが、尚ほ運河の工事は竣成の運びに至らなかつた。

書き下し

さてそのごとく世界は広大無辺のものなれば、とても我々の人智では容易にこれを究むることのできるもので無いとしていたのである。しかるに文明の進歩とともに交通機関が発達して来たために、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間においては、ほとんど隔世の感がある。顧みれば千八百六十七年、ナポレオン第三世が在位の時に当たり、フランスのパリに世界大博覧会の開かるるに際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜よりフランス郵船に乗りインド洋および紅海を経てスエズの地峡に到りしに、フランス人レセップス氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、すでに着手せられていたけれども、いまだ成就しなかったがため、一行は船を棄てて地峡に上り、鉄道によりてエジプトを横断し、「カイロー」を経て「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めてフランスの「マルセーユ」に到着したのであった。かくて翌年の冬期に帰朝する時にそこを過ぎたが、なお運河の工事は竣成の運びに至らなかった。

現代語訳

さて、そのように世界は広大で果てしないものだから、とても我々人間の知恵では容易に究められるものではないと考えていたのである。ところが文明の進歩とともに交通機関が発達してきたために、地球の広さはしだいに縮められ、最近の半世紀の間には、ほとんど時代が隔たったような感がある。振り返れば一八六七年、ナポレオン三世の在位中に、フランスのパリで万国博覧会が開かれるに際し、我が徳川幕府からは将軍の実弟である徳川民部大輔(昭武)が特命使節として派遣され、私は随行員の一人としてヨーロッパへ渡った。当時一行は横浜からフランスの郵船に乗り、インド洋と紅海を経てスエズ地峡に着いたが、フランス人レセップス氏が手がけるその地の開削の大工事は、すでに着手されてはいたものの、まだ完成していなかった。そのため一行は船を降りて地峡に上陸し、鉄道でエジプトを横断し、カイロを経てアレクサンドリアに出て、再び船に乗って地中海を渡り、横浜を出帆してから五十五日目にようやくフランスのマルセイユに到着したのであった。こうして翌年の冬に帰国するときにもそこを通ったが、運河の工事はまだ完成に至っていなかった。

解説

慶応三年、渋沢は二十七歳で徳川昭武のパリ万博派遣に随行した。一橋家に仕えて間もない身で、会計と庶務を任されての渡欧である。この段はその旅程を具体的に記す。スエズ運河は未完成で、一行は船を降りて鉄道でエジプトを横断し、横浜から五十五日かけてマルセイユに着いた。翌年、大政奉還の報を受けて帰国するときも、運河はまだ開いていなかった。この渡欧が渋沢の人生を変えたことはよく知られている。株式会社の仕組み、銀行、官民が対等に語り合う社会を目の当たりにし、帰国後の合本主義の原点となった。運河の工事現場を自分の目で見たことも、公益のための大事業が民間の資本で成し遂げられることを知る機会だったはずである。距離の短縮を語る章で、渋沢は自分の体験を物差しにしている。

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