論語と算盤 / 算盤と権利・唯王道あるのみ
惟ふに社会問題とか労働問題等の如きは、単に法律の力ばかりを以て解決されるものではない、例へば一家族内にても、父子兄弟眷族に至るまで各〻権利義務を主張して、一も二も法律の裁断を仰がんとすれば、人情は自ら険悪となり、障壁は其の間に築かれて、事毎に角突き合ひの沙汰のみを演じ、一家の和合団欒は殆んど望まれぬ事となるであらう、余は富豪と貧民との関係も、亦それと等しきものがあらうと思ふ、彼の資本家と労働者との間は、従来家族的の関係を以て成立し来つたものであつたが、俄に法を制定して是のみを以て取締らうとするやうにしたのは、一応尤もなる思ひ立ちではあらうけれども、之が実施の結果、果して当局の理想通りに行くであらうか、多年の関係に因つて資本家と労働者との間に、折角結ばれた所の言ふに言はれぬ一種の情愛も、法を設けて両者の権利義務を明かに主張するやうになれば、勢ひ疎隔さる〻に至りはすまいか、それでは為政者側が骨折つた甲斐もなく、又目的にも反する次第であらうから、此所は一番深く研究しなければならぬ所であらうと思ふ。
書き下し
おもうに社会問題とか労働問題等のごときは、単に法律の力ばかりをもって解決されるものではない。例えば一家族内にても、父子兄弟眷族に至るまで各々権利義務を主張して、一も二も法律の裁断を仰がんとすれば、人情は自ずから険悪となり、障壁はその間に築かれて、事ごとに角突き合いの沙汰のみを演じ、一家の和合団欒はほとんど望まれぬ事となるであろう。余は富豪と貧民との関係も、またそれと等しきものがあろうと思う。かの資本家と労働者との間は、従来家族的の関係をもって成立し来ったものであったが、にわかに法を制定してこれのみをもって取り締まろうとするようにしたのは、一応もっともなる思い立ちではあろうけれども、これが実施の結果、果たして当局の理想通りに行くであろうか。多年の関係によって資本家と労働者との間に、せっかく結ばれた所の言うに言われぬ一種の情愛も、法を設けて両者の権利義務を明らかに主張するようになれば、勢い疎隔さるるに至りはすまいか。それでは為政者側が骨折った甲斐もなく、また目的にも反する次第であろうから、ここは一番深く研究しなければならぬ所であろうと思う。
現代語訳
思うに、社会問題や労働問題のようなものは、ただ法律の力だけで解決されるものではない。たとえば一つの家族の中でも、父子兄弟から親族に至るまで、それぞれが権利義務を主張して、何から何まで法律の裁きを仰ごうとすれば、人情はおのずから険悪になり、互いのあいだに壁が築かれて、事あるごとに角突き合わせるばかりとなり、一家の和合や団欒はほとんど望めなくなるだろう。私は、富豪と貧民との関係もまた、それと同じようなものだと思う。あの資本家と労働者との関係は、これまで家族的な関係として成り立ってきたものであったが、にわかに法律を制定して、それだけで取り締まろうとするようにしたのは、一応はもっともな思い立ちであろうけれども、それを実施した結果、はたして当局の理想どおりにいくだろうか。長年の関係によって資本家と労働者とのあいだにせっかく結ばれた、言うに言われぬ一種の情愛も、法律を設けて両者の権利義務をはっきりと主張するようになれば、勢い疎遠にされるに至りはしないだろうか。それでは為政者側が骨を折った甲斐もなく、また目的にも反することになるだろうから、ここは大いに深く研究しなければならないところであろうと思う。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみもしそれ富豪も貧民も王道をもって立ち、王道はすなわち人間行為の定規であるという考えをもって世に処するならば、百の法文、千の規則あるよりも遥かに勝ったことと思う。換言すれば、資本家は王道をもって労働者に対し、労働者もまた王道をもって資本家に対し、その関係しつつある事業の利害得失はすなわち両者に共通なる所以を悟り、相互に同情をもって始終するの心掛けありてこそ、始めて真の調和を得られるのである。
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみ試みに余の希望を述ぶれば、法の制定はもとよりよいが、法が制定されているからと言って、一も二もなくそれに裁断を仰ぐということは、なるべくせぬようにしたい。
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみ果たして両者がこうなってしまえば、権利義務の観念のごときは、いたずらに両者の感情を疎隔せしむるほか、ほとんど何らの効果なきものと言うてよかろう。余が往年欧米漫遊の際実見したドイツのクルップ会社のごとき、また米国ボストン附近のウォルサム時計会社のごとき、その組織が極めて家族的であって、両者の間に和気靄然たるを見てすこぶる歎称を禁じ得なかった。これぞ余がいわゆる王道の円熟したるもので、こうなれば法の制定をして幸いに空文に終わらしむるのである。果たしてかくのごとくなるを得ば、労働問題も何ら意に介するに足らぬではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみその結果として貧富の懸隔を生ずるものとすれば、それは自然の成り行きであって、人間社会に免るべからざる約束と見て諦めるよりほか仕方がない。とは言え、常にその間の関係を円満ならしめ、両者の調和を図ることに意を用うることは、識者の一日も欠くべからざる覚悟である。これを自然の成り行き人間社会の約束だからと、その成るままに打ち棄て置くならば、ついに由々しき大事を惹起するに至るはまた自然の結果である。ゆえに禍を未萌に防ぐの手段に出で、よろしく王道の振興に意を致されんことを切望する次第である。
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみしかるに社会にはこれらの点に深い注意も払わず、みだりに貧富の懸隔を強制的に引き直さんと希う者がないでもない。けれども貧富の懸隔はその程度においてこそ相違はあれ、いつの世、いかなる時代にも必ず存在しないという訳には行かぬものである。もちろん国民の全部がことごとく富豪になることは望ましいことではあるが、人に賢不肖の別、能不能の差があって、誰も彼も一様に富まんとするがごときは望むべからざる処、したがって富の分配平均などとは思いも寄らぬ空想である。要するに、富むものがあるから貧者が出るというような論旨の下に、世人が挙って富者を排擠するならば、いかにして富国強兵の実を挙ぐることが出来ようぞ。個人の富はすなわち国家の富である。個人が富まんと欲するにあらずして、いかでか国家の富を得べき。国家を富まし自己も栄達せんと欲すればこそ、人々が、日夜勉励するのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・防貧の第一要義いかに自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち自己一人の専有だと思うのは大なる見当違いである。要するに、人はただ一人のみにては何事もなし得るものでない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するも出来るので、もし国家社会がなかったならば、何人たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。これを思えば、富の度を増せば増すほど社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬ゆるに救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、出来る限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う。「己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す」という言のごとく、自己を愛する観念が強ければ強いだけに、社会をもまた同一の度合をもって愛しなければならぬことである。世の富豪はまずかかる点に着眼しなくてはなるまい。
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