論語と算盤 / 人格と修養・権威ある人格養成法
世界列強国が孰れも宗教を有して道徳律の樹立されて居るのに比し、独り我国のみが此の有様では、大国民として甚だ恥かしい次第ではないか、試みに社会の現象を見よ、人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利の為には何事も忍んで為すの傾があり、今では国家を富強にせんとするよりも、寧ろ自己を富裕にせんとする方が主となつて居る、富むことも固より大切なことで、何も好んで簞食瓢飲陋巷に在つて其の楽を改めぬといふことを最上策とするには及ばない、孔子が『賢なる哉囘や』と、顔淵の清貧に安んじて居るのを褒められた言葉は、要するに『不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し』といふ言葉の裏面を曰はれたまで〻、富は必ずしも悪いと貶めたものではない、併しながら唯一身さへ富めば足るとして、更に国家社会を眼中に置かぬといふは慨すべき極である、説は富の講釈に入つたが、何にせよ社会人心の帰向が左様いふ風になつたのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けて居るからである、
新字:世界列強国が孰れも宗教を有して道徳律の樹立されて居るのに比し、独り我国のみが此の有様では、大国民として甚だ恥かしい次第ではないか、試みに社会の現象を見よ、人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利の為には何事も忍んで為すの傾があり、今では国家を富強にせんとするよりも、寧ろ自己を富裕にせんとする方が主となつて居る、富むことも固より大切なことで、何も好んで箪食瓢飲陋巷に在つて其の楽を改めぬといふことを最上策とするには及ばない、孔子が『賢なる哉囘や』と、顔淵の清貧に安んじて居るのを褒められた言葉は、要するに『不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し』といふ言葉の裏面を曰はれたまで〻、富は必ずしも悪いと貶めたものではない、併しながら唯一身さへ富めば足るとして、更に国家社会を眼中に置かぬといふは慨すべき極である、説は富の講釈に入つたが、何にせよ社会人心の帰向が左様いふ風になつたのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けて居るからである、
書き下し
世界列強国がいずれも宗教を有して道徳律の樹立されているのに比し、独り我が国のみがこの有様では、大国民としてはなはだ恥ずかしい次第ではないか。試みに社会の現象を見よ。人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利のためには何事も忍んで為すの傾きがあり、今では国家を富強にせんとするよりも、むしろ自己を富裕にせんとする方が主となっている。富むこともとより大切なことで、何も好んで簞食瓢飲陋巷にあってその楽しみを改めぬということを最上策とするには及ばない。孔子が「賢なるかな回や」と、顔淵の清貧に安んじているのを褒められた言葉は、要するに「不義にして富みかつ貴きは、我において浮雲のごとし」という言葉の裏面を言われたまでで、富は必ずしも悪いと貶めたものではない。しかしながらただ一身さえ富めば足るとして、さらに国家社会を眼中に置かぬというは慨すべき極みである。説は富の講釈に入ったが、何にせよ社会人心の帰向がそういう風になったのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けているからである。
現代語訳
世界の列強がいずれも宗教を持ち、道徳律が打ち立てられているのに比べて、ひとりわが国だけがこのありさまでは、大国民としてはなはだ恥ずかしいことではないか。試しに社会の現象を見よ。人はしばしば利己主義の極端に走り、利のためには何事でも我慢してやってのける傾きがあり、今では国家を富強にしようとするよりも、むしろ自分を富ませようとすることが主になっている。富むことはもちろん大切なことで、何も好んで一膳の飯と一椀の水で狭い路地に住み、それでもその楽しみを変えないというような暮らしを最上の策とするには及ばない。孔子が「賢いことよ、回(顔淵)は」と、顔淵が清貧に安んじているのを褒めた言葉は、要するに「不義によって富み、かつ高い地位を得ることは、私にとっては浮雲のようなものだ」という言葉の裏側を言われたまでであって、富は必ず悪いものだと貶めたのではない。しかしながら、ただ自分一人さえ富めば足りるとして、少しも国家社会を眼中に置かないというのは、嘆かわしいことの極みである。話が富の講釈に入ってしまったが、何にせよ社会の人心がそういう方向に向かったのは、おおむね社会一般の人々のあいだに人格の修養が欠けているからである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種多様にこれを論ずる人があって、目的を達するにおいては手段を択ばずなぞと、成功という意義を誤解し、何をしても富を積み地位を得られさえすれば、それが成功であると心得ている者もあるが、余はそのような説に左袒することが出来ない。高尚なる人格をもって正義正道を行い、然る後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とは言われないのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網をくぐられるだけくぐっても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的および法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという情けない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔はますます甚だしくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これまことに孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争がますます激しくなるは自然の結果と言ってよい。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法されば利殖を主義とするか、己れさえ利すればよろしい、人は構わぬという方の主義に基づいてやって行くか、今いう隣国のある一部分、元の当時の有様はそれである。人は構わぬ己れさえよければよい、国家は構わぬ、自己さえよければよい、その極国家はいかなる権利を失い、いかなる名声を落とすとも、個人の発達を考えて国家を顧みる人は、ほとんど稀だという有様である。宋の時代には前述の道徳仁義について国を亡ぼしたし、今日はまた利己主義において身を危うすると言わねばならぬのである。これは独り我が隣国ばかりでない、他の国々も皆同一であって、つまり利を図るということと、仁義道徳たる所の道理を重んずるという事は、並び立って相異ならん程度において始めて国家は健全に発達し、個人はおのおのその宜しきを得て富んで行くというものになるのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・廓清の急務なる所以旧に復って、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人はなるたけ制限して、ごく小さい範囲に棲息せしむるようにして行ったならば、その弊害を減ずることが出来るか知れないが、それでは国の富の進歩は止まってしまう。そこであくまで富を進め、富を擁護しつつ、その間に罪悪の伴わぬ神聖な富を作ろうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ。それはすなわち私が常に言っている所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾しない。だからその根本の理を明らかにして、かくすればこの位置を失わぬということを、我れ人共に十分に考究して、安んじてその道を行うことが出来たならば、あえて相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信ずる。その方法として日常の事につき、かかる商売にはかくかく、かかる事業にはかくかくとここに詳述は出来ないが、
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法国民の帰依すべき道徳律が確立しており、人はこれに信仰を持って社会に立つという有様であるならば、人格は自ずから養成されるから、社会は滔々として我利のみこれ図るというようなことはない訳である。ゆえに余は青年に向かってひたすら人格を修養せんことを勧める。青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ活力外に揚がる底のもので、いわゆる威武も屈する能わざるほどの人格を養成し、他日自己を富裕にすると共に、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ。信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険が甚だしいだけに自己もそれだけに自重してやらねばならぬのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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