論語と算盤 / 人格と修養・誤解されたる修養説を駁す
蓋し修養といふことは広い意味であつて、精神も智識も身体も行状も向上するやうに練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ、斯くて息むことなければ、遂には聖人の域にも達することが出来るのである。以上は私が二つの反対説即ち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏も亦この考で大に修養せられんことを切望するのである。
書き下し
けだし修養ということは広い意味であって、精神も知識も身体も行状も向上するように練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ。かくて息むことなければ、ついには聖人の域にも達することが出来るのである。以上は私が二つの反対説すなわち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏もまたこの考えで大いに修養せられんことを切望するのである。
現代語訳
思うに、修養というのは広い意味のもので、精神も知識も身体も行いも向上するように鍛えることであり、青年も老人も等しく修めなければならない。こうして休むことなく続けるなら、ついには聖人の境地にも達することができるのである。以上は、私が二つの反対説、すなわち修養無用論者に対して反論したことのあらましである。青年諸君もまたこの考えで、大いに修養されることを切に望む。
解説
章の結びである。渋沢は修養の範囲を、精神・知識・身体・行状の四つに広げて定義し直す。修養を心の問題だけに閉じ込めず、学ぶことも体を整えることも振る舞いを正すことも含めた全人的な向上として捉える。だから修学と対立しようがない。また「青年も老人も等しく」とあるように、修養に年齢の区切りはない。「息むことなければ」は『中庸』の「至誠は息むこと無し」の響きを持つ言葉で、続けることそのものに価値を置く儒学の考え方である。聖人の域にも達しうるという言い方は、聖人を手の届かない存在とせず、学べば誰でも近づけるとする宋学以来の立場に立っている。青年に向けた講話の形を取りながら、晩年の渋沢が自らにも課している言葉として読むことができる。
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように努めるということで、そのために人性の自然を矯めるということは無いのである。つまり人は十分に修養したならば、一日一日と過ちを去り善に遷りて聖人に近づくのである。もしも修養したために、天真爛漫を傷つけると言うならば、聖人君子は完全に発達した者でないということになる。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養ということについて、私はある者より攻撃を受けたことがある。その説は大体二つの意味に分かれていたのである。その一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷つけるから良くないと言うので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言うのであった。よってこれらの異見に対して答えておいたことを左に述べてみようと思うのである。まず修養は、人の本然の性の発達を阻害するから良くないというのは、修養と修飾とを取り違えて考えているものと思う。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない修養はどこまでやらねばならぬかと言うに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。さてこの実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁すまた修養のために偽君子となり、卑屈に陥るならば、その修養は誤れる修養であって、我々の常に言う修養ではないと思う。人は天真爛漫が善いということは私も最も賛成する所であるが、人の七情すなわち喜怒哀楽愛悪欲の発動が、いついかなる場合にも差し支えないとは言われぬ。聖人君子も発して節に中るのである。ゆえに修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬのである。いかほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことが出来ないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
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