論語と算盤 / 人格と修養・誤解されたる修養説を駁す
修養といふことに就て、私は或者より攻撃を受けたことがある。其説は大体二つの意味に分れて居たのである、其の一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷けるから宜くないと言ふので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言ふのであつた、依つて是等の異見に対して答へて置いたことを左に述べて見ようと思ふのである。先づ修養は、人の本然の性の発達を阻害するから宜くないといふは、修養と修飾とを取り違へて考へて居るものと思ふ、
書き下し
修養ということについて、私はある者より攻撃を受けたことがある。その説は大体二つの意味に分かれていたのである。その一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷つけるから良くないと言うので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言うのであった。よってこれらの異見に対して答えておいたことを左に述べてみようと思うのである。まず修養は、人の本然の性の発達を阻害するから良くないというのは、修養と修飾とを取り違えて考えているものと思う。
現代語訳
修養について、私はある人から批判を受けたことがある。その説はおおむね二つに分かれていた。一つは、修養は人の生まれつきの天真爛漫を損なうから良くない、というもの。もう一つは、修養は人を卑屈にする、というものであった。そこで、これらの異論に対して答えておいたことを、以下に述べてみようと思う。まず、修養は人の本来の性の発達を妨げるから良くない、という説は、修養と修飾(うわべを飾ること)とを取り違えて考えているのだと思う。
解説
章の書き出しである。渋沢は修養への二つの批判をまず整理し、順に反論する形を取る。一つは修養が天真爛漫を損なうという説、もう一つは人を卑屈にするという説である。大正の初めは、個性や自然を尊ぶ思潮が青年の間に広がりつつあった時期でもある。渋沢はその空気を正面から受け止め、第一の批判に「修養と修飾の取り違え」という一語で答える。飾ることは自分を偽って見せることであり、養うことは本来の性を育てることである。両者を混同すれば、修養は偽善の技術に見えてしまう。今日でも、研修や自己啓発を「会社に染められること」と感じる人は少なくない。自分を鍛えることと自分を取り繕うことを分けて考えよ、というのがこの段の要点である。
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように努めるということで、そのために人性の自然を矯めるということは無いのである。つまり人は十分に修養したならば、一日一日と過ちを去り善に遷りて聖人に近づくのである。もしも修養したために、天真爛漫を傷つけると言うならば、聖人君子は完全に発達した者でないということになる。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁すまた修養のために偽君子となり、卑屈に陥るならば、その修養は誤れる修養であって、我々の常に言う修養ではないと思う。人は天真爛漫が善いということは私も最も賛成する所であるが、人の七情すなわち喜怒哀楽愛悪欲の発動が、いついかなる場合にも差し支えないとは言われぬ。聖人君子も発して節に中るのである。ゆえに修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁すけだし修養ということは広い意味であって、精神も知識も身体も行状も向上するように練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ。かくて息むことなければ、ついには聖人の域にも達することが出来るのである。以上は私が二つの反対説すなわち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏もまたこの考えで大いに修養せられんことを切望するのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない修養はどこまでやらねばならぬかと言うに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。さてこの実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時これによりて見ると、この御方は天才を持っておられて、そしてある点にはよほど感情の強い性質を持っておられたが、これと同時に大層精神修養に力を尽くされ、そしてついに楽翁公の楽翁公たる人格を築き上げられたものと見えるのである。
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