論語と算盤 / 人格と修養・修養は理論ではない
修養は何所まで行らねばならぬかと云ふに、之は際限がないのである、けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ、修養は何も理論ではないので、実際に行ふべきことであるから、何所までも実際と密接の関係を保つて進まねばならぬ。偖この実際と学理の調和といふことは、特に述べて置かねばならぬのである、
書き下し
修養はどこまでやらねばならぬかと言うに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。さてこの実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。
現代語訳
修養はどこまでやらなければならないかと言えば、これには際限がない。けれども、空理空論に走ることにはもっとも注意しなければならない。修養は決して理論ではなく、実際に行うべきことなのだから、どこまでも実際と密接な関係を保って進まなければならない。さて、この実際と学理との調和ということについては、とくに述べておかなければならないのである。
解説
「修養は理論ではない」の章の書き出しである。修養には際限がない、とまず言い切ったうえで、渋沢はその危険を一つだけ挙げる。空理空論に走ることだ。修養は理屈を知ることではなく、実際に行うことであり、だから実際との密接な関係を手放してはならない。この短い段で章の主題が示され、以下で「実際と学理の調和」が朱子学と徳川家康の例を通して論じられていく。渋沢は若い頃から論語を読み、晩年まで講義を重ねたが、その読み方は一貫して実用であった。論語学而篇の「行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」のように、儒学自体、学ぶことと行うことを切り離さない伝統を持つ。研修や読書で学んだことが、翌日の仕事の判断に一つも表れないなら、それは修養ではなく知識の収集にとどまる、というのがこの段の含みである。
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬのである。いかほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことが出来ないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように努めるということで、そのために人性の自然を矯めるということは無いのである。つまり人は十分に修養したならば、一日一日と過ちを去り善に遷りて聖人に近づくのである。もしも修養したために、天真爛漫を傷つけると言うならば、聖人君子は完全に発達した者でないということになる。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁すけだし修養ということは広い意味であって、精神も知識も身体も行状も向上するように練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ。かくて息むことなければ、ついには聖人の域にも達することが出来るのである。以上は私が二つの反対説すなわち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏もまたこの考えで大いに修養せられんことを切望するのである。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養ということについて、私はある者より攻撃を受けたことがある。その説は大体二つの意味に分かれていたのである。その一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷つけるから良くないと言うので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言うのであった。よってこれらの異見に対して答えておいたことを左に述べてみようと思うのである。まず修養は、人の本然の性の発達を阻害するから良くないというのは、修養と修飾とを取り違えて考えているものと思う。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和がその事物の盛衰を示していることは、諸君のよく知られる所と思う。世界の二三等国について見ると明らかである。また一等国中にも、現に両者がその並行を失わんとしつつある国もあるように思われる。翻って帝国はいかがと言えば、いまだ決して十分なる調和を得ているということは出来ない。のみならず、ややもすれば離隔せんとする傾向さえ見える。これを思えば実に国家の将来が案じられるのである。ゆえに修養を主とする者は、大いにここに鑑みる所があって、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを衷心より希望してやまぬのである。換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある。すなわち精神的方面に力を注ぐと共に、智識の発達に勉めねばならぬ。そして修養が、単に自分一個のためのみではなく、一邑一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。
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