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論語と算盤 / 人格と修養・須らく其の原因を究むべし

斯の如く奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、最早此世に生き甲斐がないと思はれたのであらう、固より将来の軍事に就ても、学習院の事務に就ても、また当時英吉利の皇族に対する接伴のことも、種々関心の事はありしならむも、併し軽重之に代へ難いといふ所から、忍び難きを忍びて殉死と決して、さてこそ其事が発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕はれて、実に世界を聳動したのである、故に私は思ふ、唯その一命を棄てたのが偉いのでは無くして、六十余歳までの総ての行動、総ての思想が偉かつたといふことを頌讚せねば為らぬ。

新字:斯の如く奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、最早此世に生き甲斐がないと思はれたのであらう、固より将来の軍事に就ても、学習院の事務に就ても、また当時英吉利の皇族に対する接伴のことも、種々関心の事はありしならむも、併し軽重之に代へ難いといふ所から、忍び難きを忍びて殉死と決して、さてこそ其事が発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕はれて、実に世界を聳動したのである、故に私は思ふ、唯その一命を棄てたのが偉いのでは無くして、六十余歳までの総ての行動、総ての思想が偉かつたといふことを頌讃せねば為らぬ。

書き下し

かくのごとく奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、もはやこの世に生き甲斐がないと思われたのであろう。もとより将来の軍事についても、学習院の事務についても、また当時イギリスの皇族に対する接伴のことも、種々関心の事はありしならんも、しかし軽重これに代え難いという所から、忍び難きを忍びて殉死と決して、さてこそその事が発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕れて、実に世界を聳動したのである。ゆえに私は思う、ただその一命を棄てたのが偉いのではなくして、六十余歳までのすべての行動、すべての思想が偉かったということを頌讃せねばならぬ。

現代語訳

このように公に尽くす思いが強かったことから、不幸にも先帝(明治天皇)の崩御に際して、もはやこの世に生きがいがないと思われたのであろう。もちろん、将来の軍事についても、学習院の事務についても、また当時のイギリス皇族の接待のことについても、さまざまに気にかかることはあったのだろうが、事の軽重はこれに代えがたいというところから、忍びがたきを忍んで殉死と決め、そしてまさにそれが表に現れたからこそ、将軍の心の内が世間に知れ渡り、実に世界を震え動かしたのである。だから私は思う。ただその一命を捨てたことが偉いのではなく、六十余歳までのすべての行動、すべての思想が偉かったのだということを、たたえなければならない。

解説

渋沢は殉死の決断に至る乃木の心中を推し量る。奉公の念が強かったから、明治天皇の崩御に生きがいを失ったのだろう。学習院のこと、将来の軍事、大葬に参列した英国皇族(コンノート公アーサー王子)の接伴役のことなど、気がかりはあったはずだが、事の軽重として代えがたく、忍びがたきを忍んで決めたのだ、と。殉死という行為は今日の価値観からは肯定しがたく、当時も批判があった。渋沢自身も殉死そのものの是非には踏み込まず、評価の軸を別の所に置く。偉いのは一命を捨てたことではなく、六十余歳までのすべての行動と思想である、と。これが章の核心である。劇的な最後の一瞬だけを切り取って称えるのではなく、その一瞬に説得力を与えた長い積み重ねを称えよ、という主張は、人の評価を結果ではなく過程に置く前章「人格の標準は如何」の議論と響き合っている。

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