論語と算盤 / 人格と修養・須らく其の原因を究むべし
兎角世の中の青年は、人の結末だけを見て之を欽羨し、其の結末を得る原因が何れほどであつたかと云ふことに見到らぬ弊が多くてならぬ、或人は栄達したとか、或人は富を得たとか云つて羨望するけれども、其の栄達若しくは其の富を得るまでの勤勉は容易ならぬ、智識は勿論、力行とか忍耐とか、常人の及ばざる刻苦経営の結果であるに相違ない、其の智識其の力行、其の忍耐といふものに想ひ到らないで、只その結果だけを見て之を羨望するのは甚だ謂れないことである
書き下し
とかく世の中の青年は、人の結末だけを見てこれを欽羨し、その結末を得る原因がいかほどであったかということに見到らぬ弊が多くてならぬ。ある人は栄達したとか、ある人は富を得たとか言って羨望するけれども、その栄達もしくはその富を得るまでの勤勉は容易ならぬ。智識はもちろん、力行とか忍耐とか、常人の及ばざる刻苦経営の結果であるに相違ない。その智識その力行、その忍耐というものに思い到らないで、ただその結果だけを見てこれを羨望するのは甚だいわれないことである。
現代語訳
とかく世の若い人は、人の結末だけを見て羨み、その結末に至った原因がどれほどのものだったかに思いが及ばない弊が多くて困る。あの人は栄達した、あの人は富を得たと言って羨むけれども、その栄達や富に至るまでの勤勉は並大抵ではない。知識はもちろん、実行力や忍耐など、常人の及ばない刻苦の結果に違いないのだ。その知識、その実行力、その忍耐に思い至らず、結果だけを見て羨むのは、まったくいわれのないことである。
解説
乃木希典の殉死をめぐる章である。世間が壮烈な最期に沸くなかで、渋沢の見方は違った。偉いのは一命を捨てたことではなく、そこまでの六十余年の行動と思想のほうだ、と。二人の息子を日露戦争で失っても涙を人に見せなかったこと、部下の痛苦を心から察したこと、詩歌に長け、辞世まで巧まずに詠んだこと。それらの積み重ねがあったから、一死が天下を震わせた。ここから彼は一般化する。人は結末だけを見て羨むが、原因を見ない、と。呉起が兵士の膿を吸った故事を引き、それが術数ではなかったかと母が嘆いた話まで添えるあたり、動機と平生を見る目は徹底している。
この章句が説くこと
原因を究むべし乃木大将の殉死平生の行状結果への羨望至誠
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『論語と算盤』人格と修養・須らく其の原因を究むべし乃木大将に対するも、ただその壮烈の一死のみを感嘆して、その人格と操行とに想到せぬのは、あたかも人の富貴栄達を見て、いたずらにその結果を羨望すると同様になりはせぬか。ゆえに私は将軍に対して、殉死そのものを軽視するという意味ではないけれども、かくのごとく天下を感動せしめたる所以のものは、壮烈無比なる殉死にありと言わんよりは、むしろ将軍の平生の心事、平生の行状がこれをしてしからしめたものなりと解釈するのである。
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『論語と算盤』人格と修養・須らく其の原因を究むべし私の観る所もほぼ後者と同様なれども、乃木大将が末期における教訓が尊いというよりは、むしろ生前の行為こそ真に崇敬すべきものありと思う。換言すれば、大正元年九月十三日までの乃木大将の行為が純潔で優秀であるから、その一死が青天の霹靂のごとく世間に厳しい感想を与えたのである。大将の殉死がいかなる動機から起こったにいたせ、ただその一死だけがかくのごとく世間に激しい影響を与えたのでは無かろう。ゆえに私は前に述べた点について少しく意見を敷衍して見ようと思う。ただし私は乃木大将とは親しみが厚くなかったから、その性行をつまびらかに知らぬけれども、殉死後各方面の評論から観察すると、実に忠誠無二の人である。廉潔の人である。その一心はただ奉公の念に満たされた人である。そして事に処して常に精神をこれに集注していやしくもせぬ人であるということは、すべての行為において察知し得らるるのである。
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『論語と算盤』人格と修養・須らく其の原因を究むべし乃木大将の殉死について世間の論ずる所を観るに、ある説のごときは、殉死については多少非難なきにあらざれど、乃木大将にして始めて可なり、他人これに倣うべきにあらずと論ずるもあり、または絶対に感嘆すべき武士的行為にして、実に世の中を聳動せしめたる天晴れの最期とて、限りなき崇敬の心をもって論評するもありて、ほとんど当時の新聞雑誌がその事について塡められたほどであるから、大将の行為は現社会に大なる影響を与えたと言い得るだろうと思う。
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『論語と算盤』人格と修養・須らく其の原因を究むべしかくのごとく奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、もはやこの世に生き甲斐がないと思われたのであろう。もとより将来の軍事についても、学習院の事務についても、また当時イギリスの皇族に対する接伴のことも、種々関心の事はありしならんも、しかし軽重これに代え難いという所から、忍び難きを忍びて殉死と決して、さてこそその事が発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕れて、実に世界を聳動したのである。ゆえに私は思う、ただその一命を棄てたのが偉いのではなくして、六十余歳までのすべての行動、すべての思想が偉かったということを頌讃せねばならぬ。
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『論語と算盤』人格と修養・須らく其の原因を究むべしことに軍務的行動については、何物をも犠牲にして君のため国のために尽くすという精神に富まれたことは、現に二人の令息が日露戦役にて前後討死された時にも、将軍は君国のために堅忍その情を撓めて、涙一滴も人に見せなかった一事に徴しても明らかである。全体将軍は青年の頃より、軍人としては事ごとに長上の命令に服従して、水火の中をも辞せぬという堅実なる服従気性を持っておられたと同時に、事の是非善悪についての議論には、いささかも権勢に屈せぬという凛乎たる意考を持っておられたように見受けられる。それかあらぬか、ある場合に先輩の意見に逆らって休職になったなどということは、けだしその強固の意志に原因せしものと想像される。さらば至って偏狭な過激なただ感情的の人かと思うと、その間に靄然たる君子の風ありて、あるいは諧謔をもって、あるいは温乎たる言動をもって、人をなつけられ、自己が率いた兵隊などに対してもそれこそ心からその人の痛苦を恕察し、またその戦死については、故郷の父母妻子に対して深く哀情を添えておられた。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難はこれをもって知らるるのであるから、人の真価というものは容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属するいわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽したる精神と効果とによってすべきものである。
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