論語と算盤 / 処世と信条・士魂商才
また『己れを責めて人を責むるな』は、『己欲立而立人、己欲達而達人』といふ句の意を採られたのである、また『及ばざるは過ぎたるより勝れり』といふのは、例の『過猶不及』と孔子が教へられたのと一致して居る、『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ』は『克己復礼』の意である、『人は唯身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな』は分に安んずることである、『不自由を常と思へば不足なし、心に望み起らば困窮したる時を思ひ出すべし』『勝つこと計りを知りて負くることを知らざれば、害その身に至る』とある、この意味の言葉は論語の各章に屢次繰返して説いてある。次に公が処世に巧みであつたこと、二百余年の大偉業を開かれたことは、大抵論語から来て居るのである。
新字:また『己れを責めて人を責むるな』は、『己欲立而立人、己欲達而達人』といふ句の意を採られたのである、また『及ばざるは過ぎたるより勝れり』といふのは、例の『過猶不及』と孔子が教へられたのと一致して居る、『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ』は『克己復礼』の意である、『人は唯身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな』は分に安んずることである、『不自由を常と思へば不足なし、心に望み起らば困窮したる時を思ひ出すべし』『勝つこと計りを知りて負くることを知らざれば、害その身に至る』とある、この意味の言葉は論語の各章に屡次繰返して説いてある。次に公が処世に巧みであつたこと、二百余年の大偉業を開かれたことは、大抵論語から来て居るのである。
書き下し
また『己れを責めて人を責むるな』は、『己欲立而立人、己欲達而達人』という句の意を採られたのである。また『及ばざるは過ぎたるより勝れり』というのは、例の『過猶不及』と孔子が教えられたのと一致している。『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え』は『克己復礼』の意である。『人はただ身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな』は分に安んずることである。『不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したる時を思い出すべし』『勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、害その身に至る』とある。この意味の言葉は論語の各章にしばしば繰り返して説いてある。次に公が処世に巧みであったこと、二百余年の大偉業を開かれたことは、たいてい論語から来ているのである。
現代語訳
また「自分を責めて人を責めるな」は、「自分が立ちたいと思えば人を立たせ、自分が達したいと思えば人を達しさせる」という句の意味を採られたものである。また「及ばないのは過ぎるよりまさっている」というのは、例の「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と孔子が教えられたのと一致している。「堪忍は無事に長く続くための基であり、怒りは敵と思え」は「己に克ちて礼に復る」の意味である。「人はただ身のほどを知れ。草の葉の露も、重くなれば落ちるものだ」は、分に安んじることである。「不自由を当たり前と思えば不足はない。心に欲が起こったら、困窮していた時を思い出せ」「勝つことばかり知って負けることを知らなければ、害がその身に及ぶ」ともある。こうした意味の言葉は、論語の各章にしばしば繰り返し説かれている。さらに言えば、家康公が処世に巧みであったこと、二百余年に及ぶ大事業を開かれたことは、おおむね論語から来ているのである。
解説
関連する章句
-
『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養神君の遺訓と称して平仮名交じりの文章がある。すなわち「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず……云々」。私はかように能く覚えております。この遺訓はまったく論語から出ております。東照公が論語をよくお読みなすった証拠であります。「士は以て弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し、仁以て己が任と為す、また重からずや、死して後已む、また遠からずや」。これは曾子という人の語で、論語の泰伯篇にあります。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とまったく同意味であります。また末段の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、孔子の言から出たのです。そして孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言うたのを、公は「勝れり」と強くしたのです。
-
『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないおのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』について考えて見るに、皆経学中に求めたものである。多くは論語中の警句中より成立している。当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、けだし学問の活用、すなわち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるによることと思うのである。しかも家康がかくまで朱子の儒学を採ってこれを実際に応用したけれども、元禄享保の頃となっては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶようになって来て、有名なる儒者は多かったけれども、これを実際と密着せしめたものは甚だ稀で、わずかに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない。徳川の末の微々として振るわなくなって来たのも、やはりこの調和を失した結果であろうと思うのである。
-
『論語と算盤』処世と信条・士魂商才また人の世に処するの道は、なかなか至難のものである。けれども論語を熟読玩味して往けば大いに覚るところがあるのである。ゆえに私は平生孔子の教えを尊信すると同時に、論語を処世の金科玉条として、常に座右から離したことはない。我が邦でも賢人豪傑はたくさんにいる。その中でも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは徳川家康公である。処世の道が巧みなればこそ、多くの英雄豪傑を威服して十五代の覇業を開くを得たので、二百余年間人々が安眠高枕することの出来たのは実に偉とすべきである。それゆえ処世の巧みな家康公であるから、種々の訓言を遺されている。かの『神君遺訓』なども、我々処世の道を実によく説かれている。そしてその『神君遺訓』を私が論語と照らし合わせて見たのに、実に符節を合するがごとくであって、やはり大部分は論語から出たものだということが分かった。例えば『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし』とあるのは、論語の『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎』とある、この曾子の言葉とまことによく合っている。
-
『論語と算盤』処世と信条・人は平等なるべし渋沢の下に居りて舞台が狭いのならば、即座に渋沢と袂を分かち、自由自在に海濶な大舞台に乗り出して、思うさま手一杯の働きぶりを見せて下さることを私は衷心から希っている。我に一日の長があるがために、人が自ら卑くして私のもとで働いてくれるにしても、人の一日の及ばざるの故をもって、私はその人を卑しめたくない。人は平等でなければならぬ、節制あり礼譲ある平等でなければならぬ。私を徳とする人もあろうが、私も人を徳としている。畢竟世の中は相持ちと極まっているから、我も驕らず、彼も侮らず、互いに相許して毫末も乖離する所のなきように私は勤めている。
-
『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私は世間で覧らるるほどに、決していわゆる円満の人間ではない。一見いわゆる円満のようでも、実際はどこかにいわゆる円満でない所があろうと思う。若い時分にはもとよりそうであったが、七十の坂を越した今日といえども、私の信ずる所を動かしこれを覆そうとする者が現るれば、私は断々乎としてその人と争うことを辞せぬのである。私が信じて自ら正しいとする所は、いかなる場合においても決して他に譲ることをせぬ。ここが私のいわゆる円満でない所だと思う。人には老いたると若いとの別なく、誰にでもこれだけの不円満な所がぜひあってほしいものである。しからざれば人の一生もまったく生き甲斐のない無意味なものになってしまう。いかに人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、あまりに円満になり過ぎると、過ぎたるはなお及ばざるがごとしと、論語の先進篇にも孔夫子が説かれている通りで、人として全く品位のないものになる。
-
『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養これらの批評はこれだけで止めますが、とにかくこの御遺訓が論語より出たということは、諸君にも明瞭にお解りでありましょう。そのほかにもこの道徳についてはよほどお心を用いられたものと見える。元亀天正の頃はあの通り乱世が打ち続いて、世の中に文学趣味などはほとんど無くなり、仁義道徳の何者か分からぬという時に、誰が申し上げたともなく、とく既に文学を盛んにしなければならぬということについて御心を労され、しかもそれが根本的文学であって、切に仁義道徳を重んずる主義をもって全然朱子学を用いられたように思います。爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこれらの御用意はいかなる御手際であるか、私は敬服に余りありというほかない。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る