論語と算盤 / 人格と修養・修養は理論ではない
右に対する例証は沢山にあるが、之を漢学に求めて見れば、孔孟の儒教は支那に於ては最も尊重されて、之を経学または実学と云つて、彼の詩人又は文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある、而して其れを最も能く研究し発達せしめたのが彼の支那宋末の朱子である、蓋し朱子は非常に博学で、且つ熱心に此学を説いたのである、所が、朱子の時分の支那の国運は如何であつたかと云ふに、丁度その頃は宋朝の末で、政事も頽廃し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かつたのである、即ち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した、詰り学問と実際とが全く隔絶して居たのである、つまり本家本元の経学が宋朝に至りて大に振興したにも係はらず、之を採つて実際に用ゐなかつたのである。
書き下し
右に対する例証はたくさんにあるが、これを漢学に求めて見れば、孔孟の儒教は支那においては最も尊重されて、これを経学または実学と言って、かの詩人または文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある。そしてそれを最もよく研究し発達せしめたのがかの支那宋末の朱子である。けだし朱子は非常に博学で、かつ熱心にこの学を説いたのである。ところが、朱子の時分の支那の国運はいかがであったかと言うに、ちょうどその頃は宋朝の末で、政事も頽廃し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かったのである。すなわち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した。つまり学問と実際とが全く隔絶していたのである。つまり本家本元の経学が宋朝に至りて大いに振興したにもかかわらず、これを採って実際に用いなかったのである。
現代語訳
これについての例証はたくさんあるが、漢学に求めてみると、孔子・孟子の儒教は中国ではもっとも尊重され、これを経学あるいは実学と呼んで、詩人や文章家がもてあそぶ文学とはまったく別物とみなしている。そして、それをもっともよく研究し発達させたのが、中国の宋の末期の朱子(朱熹)である。思うに朱子は非常に博学で、しかも熱心にこの学問を説いた。ところが、朱子の頃の中国の国運はどうであったかと言えば、ちょうどその頃は宋朝の末期で、政治も退廃し、兵力も微弱で、少しも実学の効果はなかった。つまり学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した。要するに、学問と実際とがまったく切り離されていたのである。本家本元の経学が宋の時代に大いに盛んになったにもかかわらず、それを採り入れて実際に用いなかったのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬのである。いかほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことが出来ないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない修養はどこまでやらねばならぬかと言うに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。さてこの実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないしかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべしこの学派の師宗朱子その人が、ただ大学者というまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行う底の人物でなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人はこれを実地に行うべきものとし、説く者と行う者との区別を生じ、これが結果として、孔孟のいわゆる民すなわち被治者階級に属する者は、ただ命これ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るという卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者のなすべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせせってさえおれば能事了るという考えが、習い性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいう観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自らその臭を知らずといえば、かかる数百年の悪風に養われ、いわゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、あっぱれ有道の君子的人物となすは、もとより容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、この道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向かわしめ、いよいよその悪風を助長することとなった。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないおのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』について考えて見るに、皆経学中に求めたものである。多くは論語中の警句中より成立している。当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、けだし学問の活用、すなわち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるによることと思うのである。しかも家康がかくまで朱子の儒学を採ってこれを実際に応用したけれども、元禄享保の頃となっては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶようになって来て、有名なる儒者は多かったけれども、これを実際と密着せしめたものは甚だ稀で、わずかに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない。徳川の末の微々として振るわなくなって来たのも、やはりこの調和を失した結果であろうと思うのである。
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