論語と算盤 / 人格と修養・人格の標準は如何
併し孔子自身は果して左様に下級生と感じたであらうか、文王、武王、周公、孔子皆其の分に満足して其の生を終つたとするならば、富を以て人の真価の標準とし、孔子を以て人間の下級生なりと為すのは、適当なる評価と言ひ得るであらうか、是を以て人を評価するの困難を知るべきである、善く其人の以てする所を視、其の由る所を観て、而して後その人の行為が世道人心に如何なる効果ありしかを察せざれば、之を評定することは出来ぬと思ふ。
書き下し
しかし孔子自身は果たしてさように下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子皆その分に満足してその生を終えたとするならば、富をもって人の真価の標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。よくその人のもってする所を視、その由る所を観て、そして後その人の行為が世道人心にいかなる効果ありしかを察せざれば、これを評定することは出来ぬと思う。
現代語訳
しかし孔子自身は、はたしてそのように自分を下級生だと感じたであろうか。文王・武王・周公・孔子がみな、それぞれの分に満足してその生涯を終えたとするなら、富を人の真価の基準とし、孔子を人間の下級生だとするのは、適切な評価と言えるだろうか。このことから、人を評価することの難しさを知るべきである。その人が何をしているかをよく視、何に基づいてしているかを観て、そのうえで、その人の行いが世の道徳や人の心にどのような効果をもたらしたかを察しなければ、これを評定することはできないと思う。
解説
前段で「孔子は下級生」という結論を置いた渋沢は、ここで反転させる。孔子自身がそう感じただろうか。文王も武王も周公も孔子も、それぞれの分に満足して生を終えたなら、富で孔子を下級生とするのは適当な評価ではない、と。そして人を評価する方法として、論語為政篇の「其の以てする所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや」を下敷きにした一文を置く。何をするかを見、何に拠ってするかを観る。そのうえで渋沢は、孔子の「安んずる所を察す」を、その行為が世道人心にどんな効果をもたらしたかを察することに置き換えている。動機と手段だけでなく、世の中への結果まで見よという、実業家らしい読み替えである。既存の一段の「世に尽くしたる精神と効果とに由つてすべき」という結論は、この論語の三段階の評価法から導かれている。
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