論語と算盤 / 人格と修養・人格の標準は如何
我国の歴史上の人物に就て見るも、また其の感なき能はざるものがある、藤原時平と菅原道真、楠正成と足利尊氏、何れを高価に評定し、何れを低価とすべきか、時平も尊氏も共に富に於ては成功者であつた、併し今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕わす対象としてのみ評さる〻に過ぎない、之に反して道真の名は、児童走卒と雖も尚ほ能く之を記憶して居る、然らば孰れを果して真価ある者と目すべきであらうか、尊氏正成二氏に就て見るも同様である、
書き下し
我が国の歴史上の人物について見るも、またその感なき能わざるものがある。藤原時平と菅原道真、楠正成と足利尊氏、いずれを高価に評定し、いずれを低価とすべきか。時平も尊氏も共に富においては成功者であった。しかし今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕わす対象としてのみ評さるるに過ぎない。これに反して道真の名は、児童走卒といえどもなおよくこれを記憶している。しからばいずれを果たして真価ある者と目すべきであろうか。尊氏正成二氏について見るも同様である。
現代語訳
わが国の歴史上の人物について見ても、やはりそう感じずにはいられないものがある。藤原時平と菅原道真、楠木正成と足利尊氏、どちらを高く評価し、どちらを低く評価すべきだろうか。時平も尊氏も、富においてはともに成功者であった。しかし今日から見れば、時平の名は、道真の誠実な忠義を際立たせる引き立て役としてしか語られない。これに対して道真の名は、子どもや使い走りの者でさえよく覚えている。それならば、どちらを本当に真価のある者と見るべきだろうか。尊氏と正成の二人について見ても同じである。
解説
孔子の例に続いて、渋沢は日本史から二組の対比を挙げる。藤原時平は讒言によって菅原道真を大宰府に左遷させ、政権を握った。足利尊氏は後醍醐天皇に背いて湊川で楠木正成を破り、室町幕府を開いた。どちらも勝者であり、富においては成功者だった。しかし後世、時平の名は道真の誠忠を際立たせる対象としてしか語られず、道真は天神として子どもにまで知られている、と渋沢は言う。楠木正成を忠臣の鑑とし尊氏を逆臣とする見方は、明治以降の皇国史観で強調されたもので、今日の歴史学ではより多面的に評価されている。ただ渋沢の論の要点は、勝敗や富による当座の評価と、後世に残る評価とが食い違うという事実にある。「棺を蓋いて論定まる」を具体例で裏づけ、目先の成功より、世に尽くした誠の重さを示す段である。
関連する章句
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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功眼前に現れた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏はかえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平とについて見ても、時平は当時の成功者で、太宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として全国津々浦々の端においても祀られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これはかえって真の成功者である。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難はこれをもって知らるるのであるから、人の真価というものは容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属するいわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽したる精神と効果とによってすべきものである。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何古来歴史中の人々、何者かよく人として価値ある生活をなしたであろう。往昔支那の周時代にあっては、文武両王並び起って殷王の無道を誅し、天下を統一して専ら徳政を施かれた。そして後世文武両王をもって道徳高き聖主と称している。して見れば文武両王のごときは、功名も富貴も共に得られた人と言うべきである。しかるに文王武王周公孔子と並び称せられている夫子はいかがである。また聖人として崇められ、孔夫子に対して四配と言える顔回、曾子、子思、孟子のごときも、聖人に亜ぐものとして推称せられているに関わらず、これらの人々は終生道のために天下に遊説して、その一生を捧げたものである。けれども戦国の際、一小国家すら自ら有することは出来なかった。されど徳においては文武に譲らずして、その名もまた高いものであったが、富貴という方面からこれを物質的に評するならば、実に雲泥霄壌の差ありて比較にならないのである。ゆえにもし富を標準として人の真価を論ずれば、孔子は確かに下級生である。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何しかし孔子自身は果たしてさように下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子皆その分に満足してその生を終えたとするならば、富をもって人の真価の標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。よくその人のもってする所を視、その由る所を観て、そして後その人の行為が世道人心にいかなる効果ありしかを察せざれば、これを評定することは出来ぬと思う。
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