論語と算盤 / 人格と修養・楽翁公の幼時
『十余り二つの時、自教鑑と云ふ書を書きたり、大塚氏に添削を請ひたれば、其うちの書にしては見よきなり、今もあり、清書の頃、明和は七つとあれども五年の頃より作りたり、父上悦び給ひて史記を賜ふ、今も蔵書になしぬ、十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど、平仄も揃ひかねて人にも言ひ難きなり、雨後の詩に虹晴清夕気雨歇散秋陰流水琴声響遠山黛色深又七夕の詩に七夕雲霧散織女渡銀河秋風鵲橋上今夜莫揚波とよみたるも、多くの師の添削にあひたれば、斯かる言葉とはなりたりける。』
書き下し
『十余り二つの時、自教鑑という書を書きたり、大塚氏に添削を請いたれば、そのうちの書にしては見よきなり、今もあり、清書の頃、明和は七つとあれども五年の頃より作りたり、父上悦び給いて史記を賜う、今も蔵書になしぬ、十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど、平仄も揃いかねて人にも言い難きなり、雨後の詩に虹晴清夕気雨歇散秋陰流水琴声響遠山黛色深また七夕の詩に七夕雲霧散織女渡銀河秋風鵲橋上今夜莫揚波と詠みたるも、多くの師の添削にあいたれば、かかる言葉とはなりたりける。』
現代語訳
「十二歳の時、『自教鑑』という書を書いた。大塚氏に添削を頼んだので、その頃の書き物にしては見られるものになっている。今も手元にある。清書の日付は明和七年となっているが、五年の頃から作り始めたものである。父上が喜ばれて『史記』を下さった。今も蔵書にしてある。十一、二歳の頃から詩を作ったが、平仄もそろわず、人に言えるようなものではない。雨上がりの詩に『虹晴れて夕気清く、雨歇んで秋陰散ず。流水に琴声響き、遠山に黛色深し』、また七夕の詩に『七夕雲霧散じ、織女銀河を渡る。秋風鵲橋の上、今夜波を揚ぐること莫かれ』と詠んだのも、多くの師の添削を受けたので、このような言葉になったのである」。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時『十余り二つの頃、著述を好みて通俗の書など集め、大学の条下にある事々を書き集めて人の教戒の便りにせまほしく思い立ちて書きけれども、古きことも覚え侍らぬ上、通俗の書は偽り多しと聞きければ止めたり。』もう十一二歳の頃から著述をして人の教えになろうと思うことを書き始められたのであるが、しかし古いことは知らず、また通俗の書を参考にする、事実を失うていることがあるから、読者を誤らしめてはならぬと思い返して止められたのである。『今思えば真西山の大学術義の旨趣に類したる大旨なれば、蒐め侍らざりしぞ幸いとも言うべきにぞ、この頃より歌も詠みたれど、皆腰折の類にて覚えもし侍らず、また頼りよる人もなければ、自ら詠みて反古にのみしたり、鈴鹿山の花の頃、旅人の行き交う様描きたるを見て、鈴鹿山旅路の宿は遠けれど振り捨てがたき花の木の下と詠みたるも、十余り一つの頃にありけん。』十一歳の時にすでにこういう歌を詠まれたのは、文芸上においても天才であったように思われます。
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時これで見ると楽翁公は性来非常に多能で、少年の時分からよほど優れた御人のようである。自教鑑というは公の蔵書中に出ているが、自分の身を修めるということを自ら戒めた書で、あまり長篇ではないように記憶している。私も昔これを読んだことを覚えている。楽翁公はまた甚だやさしい性質の御方であったが、しかし老中田沼玄蕃頭の政治をひどく憂えて、とてもこれでは徳川家は立ち行くことは出来ぬという位に憤慨して、是非この悪政を除くには田沼を殺す外はないから、身を捨てて田沼を刺そうということを覚悟したということが、この書の中にも書いてある。元来至って温和な思慮深い御人であったが、ある点にはよほど精神の鋭い所のあった方のようである。なお続いて読んで行くと、癇癖の強い所があって、それを侍臣が厳しく諫めたことが書いてある。『明和八年予は十余り四つになれり〔中略〕
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時『その後大学など読み習いたる頃、幾かえり教えられ侍りても得覚え侍らずして、さては人々の褒めののしりけるは諂らい阿ねるにこそ、実はいと不才にして不記憶なりけりと、九つの頃ふと覚りぬ、これを思えば幼き時褒めののしるはいと悪しきことなるべし、十余りの頃より名を代々に高くし、日本唐土へも名声を鳴らさんと図りけるも、大志のようなれどもいと愚かなることにぞ侍りける。』これによって見ると、十歳位の時から海外にまで聞こえるほどの人物になりたいと思われた。実に非凡なことである。しかし御自身では、それは大志のようではあったけれども、烏滸の次第であったと謙遜しておられるのである。『その頃より大字など多く写して人の需めに応じたりけり、皆々請い需めしも諂いの種に生い出でしことなれば、その需めに応じて書きける心いと浅かりけり。』私共も時々字などを書かせられるが、あるいは楽翁公がここに言われたようなことがあるかも知れない。
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時予この頃より短気にして、わずかのことにも怒りふづくみ、あるいは人を叱怒し、または肩はり筋いだして理を言いなんどしたり。皆々嘆かわしとのみ言いたり。大塚孝綽ことによく諫めたり。水野為長常に諫めて日々のよしあしを言いたり。聞けばいと感じけれど、ふづくみの情に堪えがたきに至る。床に索道の描きし太公望の釣する画をかけて、怒りの情おこれば独りそれに打ち向かいて、その情を鎮めけれども堪えかねたり。ひと日まったく怒りの情なく暮らしたく思いしかど、ついにその頃はなかりき。かくても十八歳の頃より洗いそそぎしようになりたるこそ稀有なれ。まったく左右の直言ありし故なるべし。
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時楽翁公の伝はすでに広く世間に知れ渡っていることであるから、今改めて述ぶるまでもないのであるが、ここに述べんとするは楽翁公の御自筆で、松平家の秘書となっている『撥雲秘録』というものによりて、いささか公の御幼時における一端を窺うと同時に、その御人格御精神等の非凡なる所以を紹介しようと思うのである。すなわち『六つの年に大病に罹りたり、生くべきほど心許なかりけれど、高島朔庵法眼等多くの医師打ち集いて医しぬ、九月の頃平癒す、七つの頃にやありけん、孝経を読み習い仮名なんど習いたり、八つ九つの頃、人々皆記憶もよく才もありとて褒めののしりければ、我が心ながらさもあることよと思いしぞはかなかれ。』これは御利口だ御利口だと皆がお世辞を言うから、自分自身は利口なつもりでいたのが恥ずかしいという、懐旧の情を述べられたので、甚だゆかしき述懐である。
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『論語と算盤』人格と修養・楽翁公の幼時これによりて見ると、この御方は天才を持っておられて、そしてある点にはよほど感情の強い性質を持っておられたが、これと同時に大層精神修養に力を尽くされ、そしてついに楽翁公の楽翁公たる人格を築き上げられたものと見えるのである。
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