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論語と算盤 / 理想と迷信・修験者の失敗

全体余は最初から此事には反対であつたので、いよいよ祈禱するに就ては、何か疑はしき所でも有つたらばと思つて始終注目して居たが、今無縁仏と曰つたに就て、『其の無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建てるにも碑を建てるにも、その時代が知れなければ困ります』と言つたら、修験者は重ねて中座に伺つた、すると中座は『凡そ五六十年以前である』というたので、又押返して『五六十年以前なら何といふ年号の頃でありますか』と尋ねたら、中座は『天保三年の頃である』と曰つた、

新字:全体余は最初から此事には反対であつたので、いよいよ祈祷するに就ては、何か疑はしき所でも有つたらばと思つて始終注目して居たが、今無縁仏と曰つたに就て、『其の無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建てるにも碑を建てるにも、その時代が知れなければ困ります』と言つたら、修験者は重ねて中座に伺つた、すると中座は『凡そ五六十年以前である』というたので、又押返して『五六十年以前なら何といふ年号の頃でありますか』と尋ねたら、中座は『天保三年の頃である』と曰つた、

書き下し

全体余は最初からこの事には反対であったので、いよいよ祈禱するについては、何か疑わしき所でもあったらばと思って始終注目していたが、今無縁仏と言ったについて、「その無縁仏の出た時はおよそ何年ほど前の事でありましょうか、祠を建てるにも碑を建てるにも、その時代が知れなければ困ります」と言ったら、修験者は重ねて中座に伺った。すると中座は「およそ五六十年以前である」と言うたので、また押し返して「五六十年以前なら何という年号の頃でありますか」と尋ねたら、中座は「天保三年の頃である」と言った。

現代語訳

そもそも私は最初からこのことには反対だったので、いよいよ祈禱をするとなってからは、何か疑わしいところでもあればと思って、始終注意して見ていた。いま無縁仏と言ったので、「その無縁仏が出たのは、およそ何年ほど前のことでしょうか。祠を建てるにも碑を建てるにも、その時代がわからなければ困ります」と言うと、修験者は重ねて中座に伺った。すると中座は「およそ五、六十年前である」と言ったので、さらに押し返して「五、六十年前なら、何という年号のころですか」と尋ねると、中座は「天保三年のころである」と言った。

解説

ここで少年渋沢の問いが始まる。彼は祈禱に反対していたからこそ、疑わしい点はないかと始終見張っていた。そして無縁仏という言葉をとらえ、祠や碑を建てるには時代がわからないと困る、と実務的な理由をつけて尋ねる。信仰を正面から否定すれば「神罰が当たる」と叱られて終わる。だから相手の土俵に乗り、祠を建てるための情報として問う。この問い方がうまい。中座は五、六十年前と答える。渋沢はさらに押し返して年号を尋ねる。曖昧な答えを、検証できる具体的な一点にまで絞り込んでいくのである。答えは「天保三年」。渋沢が語っているのは嘉永・安政のころのことで、天保三年は二十三年前にすぎない。五、六十年前という自らの答えと食い違う。こうして矛盾は、相手自身の口から出た。議論で相手の主張を崩すには、自分の意見を押しつけるより、相手に具体的に語らせる方が確かである。質問の力がよく表れた場面である。

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