論語と算盤 / 理想と迷信・日新なるを要す
自分は宗教観念を今でも持たぬが、併し其れかと言つて外道で守る所がないと云ふのではない、私は儒教を信仰して、是を言行の規矩として居る、『獲罪於天無所禱』である、私一人は其れで可いが、一般民衆は爾うは行かぬ、智識の程度の低い者には、矢張り宗教がなければ、ならぬ所が、今日の状態は、天下の人心帰一する所なく、宗教も亦形式となつて、お茶の流派流儀と云つたやうな憾がある、民衆に嚮うべき所を教へぬ、是は何とかせねばなるまい。此の状態に対して善い施設をせねばならぬと思ふ、今日は迷信などが中々盛んであつて、そのお蔭で田を流したの、倉をなくしたのといふものが多い、宗教家が本当に力を入れて起たなければ夫等の勢は益〻盛んになるばかりであらう、西洋人は言ふ、『信念強ければ、道徳は必要なし』と、その信念を持たせねばならぬ。
新字:自分は宗教観念を今でも持たぬが、併し其れかと言つて外道で守る所がないと云ふのではない、私は儒教を信仰して、是を言行の規矩として居る、『獲罪於天無所祷』である、私一人は其れで可いが、一般民衆は爾うは行かぬ、智識の程度の低い者には、矢張り宗教がなければ、ならぬ所が、今日の状態は、天下の人心帰一する所なく、宗教も亦形式となつて、お茶の流派流儀と云つたやうな憾がある、民衆に嚮うべき所を教へぬ、是は何とかせねばなるまい。此の状態に対して善い施設をせねばならぬと思ふ、今日は迷信などが中々盛んであつて、そのお蔭で田を流したの、倉をなくしたのといふものが多い、宗教家が本当に力を入れて起たなければ夫等の勢は益〻盛んになるばかりであらう、西洋人は言ふ、『信念強ければ、道徳は必要なし』と、その信念を持たせねばならぬ。
書き下し
自分は宗教観念を今でも持たぬが、しかしそれかと言って外道で守る所がないというのではない。私は儒教を信仰して、これを言行の規矩としている。「罪を天に獲れば禱る所なし」である。私一人はそれでよいが、一般民衆はそうは行かぬ。智識の程度の低い者には、やはり宗教がなければならぬ。ところが、今日の状態は、天下の人心帰一する所なく、宗教もまた形式となって、お茶の流派流儀と言ったような憾みがある。民衆に向かうべき所を教えぬ。これは何とかせねばなるまい。この状態に対して善い施設をせねばならぬと思う。今日は迷信などがなかなか盛んであって、そのお蔭で田を流したの、倉をなくしたのというものが多い。宗教家が本当に力を入れて起たなければそれらの勢いはますます盛んになるばかりであろう。西洋人は言う、「信念強ければ、道徳は必要なし」と。その信念を持たせねばならぬ。
現代語訳
私は今でも宗教的な観念を持っていないが、だからといって、道を外れて守るところがないというのではない。私は儒教を信じて、これを言葉と行いの規準としている。「天に対して罪を犯せば、祈るところはない」(『論語』八佾篇)である。私一人はそれでよいが、一般の民衆はそうはいかない。知識の程度の低い者には、やはり宗教がなければならない。ところが今日の状態は、天下の人心が一つに帰するところがなく、宗教もまた形式となって、お茶の流派や流儀のようなものになってしまっている憾みがある。民衆に、向かうべきところを教えない。これはなんとかしなければなるまい。この状態に対して、良い施策をしなければならないと思う。今日は迷信などがなかなか盛んで、そのせいで田を失っただの、倉をなくしただのという者が多い。宗教家が本当に力を入れて立ち上がらなければ、そうした勢いはますます盛んになるばかりだろう。西洋人は「信念が強ければ道徳は必要ない」と言う。その信念を持たせなければならない。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずそして余は、宗教としてはたまた経文としては耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。これはあるいは余が一家言たるの嫌いがあるかも知れぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇蹟が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇蹟がたくさんにある。耶蘇は磔せられた後三日にして蘇生したというがごときは明らかに奇蹟ではないか。もっとも優れた人のことであるから、必ずそういうことは無いと断言も出来ず、それらは凡智の測り知らざる所であると言わねばなるまいが、しかしこれを信ずれば迷信に陥りはすまいか。かかる事柄を一々事実と認めることになると、智は全く晦まされて、一点の水が薬品以上の効を奏し、焙烙の上からの灸が効き目あるということも事実として認めなくてはならなくなるから、そのよって来る所の弊は甚だしいものである。日本も文明国だと言われていながら、いまだ白衣の寒詣や、不動の豆撒が依然として消滅せぬのは、迷信の国だという譏りを受けても仕方がない。しかるに孔子にこの忌むべき一条の皆無なのは余の最も深く信ずる所以で、またこれより真の信仰は生ずるであろうと思う。
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『論語と算盤』理想と迷信・これは果して絶望か私どもの組織している帰一協会というのがある。帰一というのはほかでもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、ついに一に帰する期のないものであろうか、神と言い、仏と言い、耶蘇と言い、人間の踏むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のように思われる。「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊といえども行われん」と言い、反対に「言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里といえども行われんや」と言っているのは、これは千古の格言である。もし人に忠信を欠き行いが篤敬でなかったならば、親戚故旧たりともその人を嫌がるに違いない。西洋の道徳もやはり同じような意味のことを説いている。ただ西洋の流儀は積極に説き、東洋の流儀は幾分か消極に説いてある。例えば、孔子教では「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と説いてあるのに、耶蘇の方では「己の欲する所、これを人に施せ」と、反対に説いてあるようなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと言う。
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『論語と算盤』立志と学問・現在に働け我々も明治六年頃から物質的文明に微弱ながらも全力を注ぎ、今日では幸いにも有力な実業家を全国至る所に見るようになり、国の富も非常に増したけれども、いずくんぞ知らん、人格は維新前よりは退歩したと思う。いな、退歩どころではない、消滅せぬかと心配しているのである。ゆえに物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思うのである。私は常に精神の向上を富とともに進めることが必要であると信じている。人はこの点から考えて強い信仰を持たねばならぬ。私は農家に生まれたから教育も低かったが、幸いにも漢学を修めることが出来たので、これより一種の信仰を得たのである。私は極楽も地獄も心に掛けない。ただ現在において正しいことを行ったならば、人として立派なものであると信じているのである。
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