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論語と算盤 / 理想と迷信・道徳は進化すべきか

即ち孝の一事にしても、世の進歩に伴れて人の毀誉が異ると云つても宜いと思ふ、更に一の例を云へば、王祥が親を養ひたい為に、鯉魚を捕ふるとて、裸体になつて氷の上に寝て居つたら、鯉が飛出したといふことがある、是は戯作かも知らぬが、若し事実としたならば、如何に孝道なればとて、其の心の神に感通する前に身体が凍死したならば、却つて孝道に反するであらう。

書き下し

すなわち孝の一事にしても、世の進歩につれて人の毀誉が異なると言ってもよいと思う。さらに一の例を言えば、王祥が親を養いたいために、鯉魚を捕うるとて、裸体になって氷の上に寝ておったら、鯉が飛び出したということがある。これは戯作かも知らぬが、もし事実としたならば、いかに孝道なればとて、その心の神に感通する前に身体が凍死したならば、かえって孝道に反するであろう。

現代語訳

つまり孝という一事をとっても、世の中の進歩につれて人の褒めたりけなしたりする評価が変わると言ってもよいと思う。もう一つ例を挙げれば、王祥が親を養いたいために鯉を捕ろうとして、裸になって氷の上に寝ていたところ、鯉が飛び出してきたという話がある。これは作り話かもしれないが、もし事実だとしたら、いくら孝の道だからといって、その真心が神に通じる前に身体が凍え死んでしまえば、かえって孝の道に反するであろう。

解説

二十四孝からもう一つ、王祥の話が引かれる。継母が冬に生きた魚を食べたがったので、王祥は凍った川の上に裸で横たわり、体温で氷を溶かそうとした。すると氷が割れて鯉が躍り出た、という話で、「王祥臥氷」として知られる。渋沢の批評は実に合理的である。これは作り話かもしれないが、もし本当なら、真心が神に通じる前に凍死してしまえば、かえって孝の道に反するではないか、と。『孝経』の冒頭には「身体髪膚、之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」とある。自分の体を損なうことは、儒教の本来の教えでも不孝なのである。渋沢は古典を否定しているのではなく、古典の根本に照らして後世の美談を点検している。孝のように同じ徳目でも、世の進歩につれて人の毀誉は変わる、というのがこの段の結論である。自己犠牲を美徳として語るとき、それが本来の目的に適っているかを問う視点は、働き方をめぐる今日の議論にも通じる。

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