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春秋左氏伝 / 荘公三十年・三十一年 子文、家を毀つ

三十年春,王命虢公討樊皮。夏四月丙辰,虢公入樊,執樊仲皮,歸於京師。楚公子元歸自伐鄭,而處王宮,鬭射師諫,則執而梏之。秋,申公鬭班殺子元,鬭谷於菟爲令尹,自毀其家以紓楚國之難。冬,遇于魯濟,謀山戎也,以其病燕故也。三十一年夏六月,齊侯來獻戎捷,非禮也。凡諸侯有四夷之功,則獻于王,王以警於夷。中國則否。諸侯不相遺俘。

新字:三十年春,王命虢公討樊皮。夏四月丙辰,虢公入樊,執樊仲皮,帰於京師。楚公子元帰自伐鄭,而処王宮,闘射師諫,則執而梏之。秋,申公闘班殺子元,闘谷於菟為令尹,自毀其家以紓楚国之難。冬,遇于魯済,謀山戎也,以其病燕故也。三十一年夏六月,斉侯来献戎捷,非礼也。凡諸侯有四夷之功,則献于王,王以警於夷。中国則否。諸侯不相遺俘。

書き下し

三十年春、王虢公に命じて樊皮を討たしむ。夏四月丙辰、虢公樊に入り、樊仲皮を執へ、京師に歸る。楚の公子元鄭を伐つより歸りて、王宮に處る。鬭射師諫むれば、則ち執へて之を梏す。秋、申公鬭班子元を殺す。鬭穀於菟令尹と爲り、自ら其の家を毀ちて以って楚國の難を紓ぶ。冬、魯の濟に遇ふ、山戎を謀るなり。其の燕を病ましむるを以っての故なり。三十一年夏六月、齊侯來たりて戎の捷を獻ず、禮に非ざるなり。凡そ諸侯四夷の功有れば、則ち王に獻じ、王以って夷を警む。中國には則ち否ず。諸侯相俘を遺らず。

現代語訳

荘公三十年の春、周王は虢公に命じて樊皮を討たせた。夏四月丙辰、虢公は樊に入り、樊仲皮を捕らえて都に連れ帰った。楚の公子元(令尹子元)は鄭を討って帰還すると、王宮に住み込んだ(文王の夫人に迫るためである)。鬭射師が諫めると、子元は彼を捕らえて手枷をはめた。秋、申公の鬭班が子元を殺した。鬭穀於菟(子文)が令尹となり、自分の家財を投げ出して楚の国難を和らげた。冬、荘公は斉侯と魯の済水のほとりで会った。山戎への対策を話し合うためである。山戎が燕を苦しめていたからである。荘公三十一年の夏六月、斉侯が魯に来て、山戎から得た戦利品を献じた。これは礼にかなわない。およそ諸侯が四方の異民族に対して戦功を挙げたときは、それを周王に献上し、王はそれによって異民族を戒める。中原の国どうしの戦いではそうしない。また諸侯は互いに捕虜を贈り合ったりはしないものである。

解説

前の句で鄭攻めに失敗した楚の子元は、帰国後、ついに王宮に住み込んで文王の夫人に迫り、諫めた者を手枷で縛った。結局、申公の鬭班に殺される。専横の宰相の末路である。その後任が鬭穀於菟、字を子文という。生まれてすぐ捨てられ虎に乳を与えられたという伝説を持つ人物で、名の「穀於菟」は楚の言葉で「乳を与える虎」を意味するとされる。彼は令尹に就くと「自ら其の家を毀ちて以って楚國の難を紓ぶ」。自分の家財を投げ出して国の窮乏を救った。前任者が国を私物化したあとで、後任者はまず自分の財を差し出すことから始めたのである。のちに孔子も子文を、三度令尹となっても喜ばず三度罷免されても怒らなかった人物として評している。後半は斉の桓公が山戎征伐の戦利品を魯に贈った件で、戦果は王に献じるものであって諸侯間で贈るものではないという書法である。混乱の後を引き継ぐ者が最初に何を示すかで、組織の信頼の回復の仕方が変わる。

この章句が説くこと

公私自己犠牲専横信頼回復礼

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