論語と算盤 / 仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ
余が平素の持論として屢々言ふ所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であつた為に、『仁をなせば則ち富まず、富めば則ち仁ならず』、利に就けば仁に遠ざかり、義に依れば利を失ふといふやうに、仁と富とを全く別物に解釈して了つたのは、甚だ不都合の次第である、此の解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないと云ふやうな所に立ち至らしめた、余は此点に就て多年痛歎措く能はざるものであつたが、要するに是れ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたる如く、孔孟の訓が『義利合一』であることは、四書を一読する者の直ちに発見する所である。
新字:余が平素の持論として屡々言ふ所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であつた為に、『仁をなせば則ち富まず、富めば則ち仁ならず』、利に就けば仁に遠ざかり、義に依れば利を失ふといふやうに、仁と富とを全く別物に解釈して了つたのは、甚だ不都合の次第である、此の解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないと云ふやうな所に立ち至らしめた、余は此点に就て多年痛嘆措く能はざるものであつたが、要するに是れ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたる如く、孔孟の訓が『義利合一』であることは、四書を一読する者の直ちに発見する所である。
書き下し
余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
現代語訳
これは私がふだんから持論としてたびたび言っていることだが、これまで利用厚生(物を役立て暮らしを豊かにすること)と仁義道徳との結びつきがはなはだ不十分だったために、「仁を行えば富まず、富めば仁でなくなる」と言い、利に就けば仁から遠ざかり、義に依れば利を失う、というように、仁と富とをまったく別物と解釈してしまったのは、はなはだ不都合なことである。この解釈の行き着いた極端な結果として、利用厚生に身を投じた者には仁義道徳を顧みる責任はない、というところにまで至らせてしまった。私はこの点について長年痛く嘆き続けてきたが、要するにこれは後世の学者の犯した罪であって、すでに何度も述べたように、孔子・孟子の教えが「義利合一」であることは、四書を一度読めばすぐにわかることである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよしかるにこの場合に際し、もし実業家が我勝ちに私利私慾を計るに汲々として、世間はいかようになろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っていれば、社会はますます不健全となり、嫌悪すべき危険思想は徐々に蔓延するようになるに相違ない。果たしてしからば危険思想醸成の罪は、ひとえに実業家の双肩に負わねばならなくなる。ゆえに一般社会のためにこれを匡正せんとするならば、この際我々の職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例はたくさんにある。義利合一に対する疑念は今日ただちに根本から一掃せねばならぬ。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心掛けるならば富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかと言うに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・廓清の急務なる所以旧に復って、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人はなるたけ制限して、ごく小さい範囲に棲息せしむるようにして行ったならば、その弊害を減ずることが出来るか知れないが、それでは国の富の進歩は止まってしまう。そこであくまで富を進め、富を擁護しつつ、その間に罪悪の伴わぬ神聖な富を作ろうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ。それはすなわち私が常に言っている所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾しない。だからその根本の理を明らかにして、かくすればこの位置を失わぬということを、我れ人共に十分に考究して、安んじてその道を行うことが出来たならば、あえて相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信ずる。その方法として日常の事につき、かかる商売にはかくかく、かかる事業にはかくかくとここに詳述は出来ないが、
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観例を挙ぐれば、論語の中に「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得れば去らざるなり」という句がある。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法さりながらその利殖を図るものも、もしことごとく己れさえ利すれば、他はどうでもよかろうということをもって利殖を図って行ったならば、その事物はいかに相成るか。むずかしいことを言うようであるけれども、もし果たして前に述べたごとき有様であったならば、かの孟子の言う「何ぞ必ずしも利を曰わん、また仁義あるのみ」云々、「上下こもごも利を征りて国危うし」云々、「いやしくも義を後にして利を先にすることをせば、奪わずんば饜かず」となるのである。それゆえに真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでないと私は考える。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりけだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
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