論語と算盤 / 仁義と富貴・罪は金銭にあらず
曾て某新聞紙上にアリストートルの言として、『総ての商業は罪悪である』といふ意味の句があつたと記憶して居るが、随分極端な言ひ方であると思ふたが、尚ほ再考すれば、総て得失が伴ふものには、人も其の利慾に迷ひ易く、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、夫等の弊害を誡むるため斯様な過激なる言葉を用ゐたものかと思はれる、何うしても人情の弱点として、物質上の事に眼が著き易く、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるは止むを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、此の弊害に陥り易いものである、故に昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かつたのであると思はれるので、殊更に金銭を卑しむ風が高まつたのであらう。
新字:曽て某新聞紙上にアリストートルの言として、『総ての商業は罪悪である』といふ意味の句があつたと記憶して居るが、随分極端な言ひ方であると思ふたが、尚ほ再考すれば、総て得失が伴ふものには、人も其の利慾に迷ひ易く、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、夫等の弊害を誡むるため斯様な過激なる言葉を用ゐたものかと思はれる、何うしても人情の弱点として、物質上の事に眼が著き易く、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるは止むを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、此の弊害に陥り易いものである、故に昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かつたのであると思はれるので、殊更に金銭を卑しむ風が高まつたのであらう。
書き下し
かつて某新聞紙上にアリストテレスの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しているが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるためかような過激なる言葉を用いたものかと思われる。どうしても人情の弱点として、物質上の事に眼が着きやすく、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるはやむを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、この弊害に陥りやすいものである。ゆえに昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かったのであると思われるので、ことさらに金銭を卑しむ風が高まったのであろう。
現代語訳
かつてある新聞にアリストテレスの言葉として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句が載っていたと記憶している。ずいぶん極端な言い方だと思ったが、さらに考え直してみると、およそ損得が伴うものについては、人もその利欲に迷いやすく、自然と仁義の道から外れる場合が生じるものだから、そうした弊害を戒めるために、このような過激な言葉を用いたのかと思われる。どうしても人情の弱点として、物質上のことに目が向きやすく、精神上のことを忘れて物質を重んじすぎる弊害が生じるのはやむを得ないことだが、思想が幼稚で、道徳上の観念の低い者ほど、この弊害に陥りやすいものである。だから昔は全体として見れば、知識も乏しく道義心も浅く、損得のために罪悪に陥る者が多かったのだと思われ、それでことさらに金銭を卑しむ風が高まったのであろう。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずしかし前述のごとく人情の弱点として、利慾の念よりともすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものであるが、かくなりては責めその人にありとは言うものの、金銭の禍を恐れてその価値を卑しく観るようになって、再びアリストテレスの言を繰り返さしむるに至るであろう。
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらず昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行われたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉とかいう美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心懸けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずさらにまた「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」というような意味の言を漢籍の中で読んだこともある。とにかく東洋古来の風習は、一般に金銭を卑しむこと甚だしいもので、君子は近づくべからざるもの、小人には恐るべきものとしたのであるが、畢竟貪婪飽くなき世俗の悪弊を矯めんとして、ついには極端に金銭を卑しむ様になったものと思われる。これらの説は青年諸君は深く注意を払わねばならぬ。
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『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解あり由来競争は何物にも伴うもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいう場合である。その他朝起きるにも競争がある。読書するにも競争がある。また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それぞれ競争がある。けれどもこれら後の方のものにおいては、あまり激烈なものは認めない。しかるに競馬競漕となると、命を懸けても構わないというほどになる。自己の財産を増すについてもこれと同様で、激烈なる競争の念を起こし、彼よりも我に財産の多からんことを欲する。その極、道義の観念も打ち忘れて、いわゆる目的のためには手段を択ばぬというようにもなる。すなわち同僚を誤り、他人を毀ち、あるいは大いに自己を腐敗する。古語に「富をなせば仁ならず」というのも、畢竟そういう所から出た言葉であろう。アリストートルは「すべての商売は罪悪なり」と言っているそうであるが、それはいまだ人文の開けぬ時代のことで、いかに大哲学者の申し分とあっても、真面目には受け取れない。しかし孟子も「富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず」と言っているから、等しく味わうべき言葉である。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよしかるにこの場合に際し、もし実業家が我勝ちに私利私慾を計るに汲々として、世間はいかようになろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っていれば、社会はますます不健全となり、嫌悪すべき危険思想は徐々に蔓延するようになるに相違ない。果たしてしからば危険思想醸成の罪は、ひとえに実業家の双肩に負わねばならなくなる。ゆえに一般社会のためにこれを匡正せんとするならば、この際我々の職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例はたくさんにある。義利合一に対する疑念は今日ただちに根本から一掃せねばならぬ。
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