論語と算盤 / 仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観
更に一例を以てすれば、同じく論語中に『富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾亦之を為さん、如し求むべからずんば、吾が好む所に従はん』といふ句がある、これも普通には富貴を賤んだ言葉のやうに解釈されて居るが、今正当の見地から之を解釈すれば、句中富貴を賤んだといふやうなことは一も見当らないのである、富を求め得られたなら、賤い執鞭の人となつても可いといふのは、正道仁義を行うて富を得らる〻ならばと云ふことである、即ち『正しい道を蹈んで』といふ句が此の言葉の裏面に存在して居ることに注意せねばならぬ、而して下半句は正当の方法を以て富を得られぬならば、何時までも富に恋々として居ることはない、奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行ふ方が可いとの意である、故に道に適せぬ富は思ひ切るが宜いが、必ずしも好んで貧賤に居れとは言うてない、
書き下し
さらに一例をもってすれば、同じく論語中に「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、我またこれを為さん、もし求むべからずんば、我が好む所に従わん」という句がある。これも普通には富貴を賤しんだ言葉のように解釈されているが、今正当の見地からこれを解釈すれば、句中富貴を賤しんだというようなことは一も見当たらないのである。富を求め得られたなら、賤しい執鞭の人となってもよいというのは、正道仁義を行って富を得らるるならばということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句がこの言葉の裏面に存在していることに注意せねばならぬ。そして下半句は正当の方法をもって富を得られぬならば、いつまでも富に恋々としていることはない、奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行う方がよいとの意である。ゆえに道に適せぬ富は思い切るがよいが、必ずしも好んで貧賤におれとは言ってない。
現代語訳
さらにもう一例を挙げれば、同じく論語の中に「富が求めて得られるものなら、鞭をとる卑しい役にでも私はなろう。もし求めて得られないものなら、自分の好むところに従おう」という句がある。これも普通には富貴を賤しんだ言葉のように解釈されているが、いま正しい見地から解釈すれば、句の中に富貴を賤しんだようなところは一つも見当たらないのである。富が求めて得られるなら、卑しい執鞭の人になってもよいというのは、正しい道と仁義を行って富が得られるなら、ということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句が、この言葉の裏に存在していることに注意しなければならない。そして後半の句は、正当な方法で富が得られないのであれば、いつまでも富に未練を持つことはない、悪どい手段を使ってまで富を積もうとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行うほうがよい、という意味である。だから道にかなわない富は思い切るのがよいが、必ずしも好んで貧賤にいよとは言っていない。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじた所があるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって直ちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしと言わねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である。して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所はさらにないではないか。この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく「道を以てせずして之を得れば」という所によく注意することが肝要である。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観今この上下二句を約言すれば、正当の道を踏んで得らるるならば、執鞭の士となってもよいから富を積め、しかしながら不正当の手段を取るくらいならむしろ貧賤におれというので、やはりこの言葉の反面には「正しい方法」ということが潜んでいることを忘れてはならぬ。孔子は富を得るためには実に執鞭の賤しきをも厭わぬ主義であった、と断言したら、恐らく世の道学先生は眼を円くして驚くかも知れないが、事実はどこまでも事実である。現に孔子自らそれを口にされているから致し方がない。もっとも孔子の富は絶対的に正当の富である。もし不正当の富や、不道理の功名に対しては、いわゆる「我において浮雲のごとし」であったのだ。しかるに儒者はこの間の区別を明瞭にせずして、富貴といい功名といいさえすれば、その善悪に拘わらず、何でも悪いものとしてしまったのは、早計もまた甚だしいのではないか。道を得たる富貴功名は、孔子もまた自ら進んでこれを得んとしていたのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観例を挙ぐれば、論語の中に「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得れば去らざるなり」という句がある。
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論語・述而篇子曰く、富にして求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従わん。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりけだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心掛けるならば富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかと言うに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
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