論語と算盤 / 仁義と富貴・真正の利殖法
実業と云ふものは如何に考へて宜いものか、勿論世の中の商売、工業が利殖を図るものに相違ない、若し商工業にして物を増殖するの効能がなかつたならば、即ち商工業は無意味になる、商工業は何たる公益もないものになる、
書き下し
実業というものはいかに考えてよいものか。もちろん世の中の商売、工業が利殖を図るものに相違ない。もし商工業にして物を増殖するの効能がなかったならば、すなわち商工業は無意味になる。商工業は何たる公益もないものになる。
現代語訳
実業というものは、どう考えたらよいものか。もちろん、世の中の商売や工業が利殖を図るものであることに間違いはない。もし商工業に物を増やす働きがなかったなら、商工業は無意味なものになる。商工業は何の公益もないものになってしまう。
解説
「仁義と富貴」の部の冒頭、「真正の利殖法」の章の書き出しである。渋沢は実業とは何かを問い、まず利殖、つまり利益を増やすことを正面から肯定する。商工業に物を増やす効能がなければ無意味であり、公益もない、と。ここで注目したいのは、利益と公益を対立させていない点だ。物を増やすことそのものが公益なのである。江戸時代の儒学の伝統では、利を語ることは卑しいとされ、商人は身分の下位に置かれた。渋沢は幕臣として欧州に渡り、株式会社や銀行の仕組みを見て、商工業が国を富ませる原動力であることを確信した。帰国後、大蔵省を経て民間に転じ、第一国立銀行をはじめ多くの会社を興したのも、この確信による。利殖を後ろめたいものとせず、まず肯定したうえで、その正しいあり方を論じる。この順序がこの章、ひいては本書全体の特徴であり、道徳の名で儲けを否定する議論とは出発点が違うのである。
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法さりながらその利殖を図るものも、もしことごとく己れさえ利すれば、他はどうでもよかろうということをもって利殖を図って行ったならば、その事物はいかに相成るか。むずかしいことを言うようであるけれども、もし果たして前に述べたごとき有様であったならば、かの孟子の言う「何ぞ必ずしも利を曰わん、また仁義あるのみ」云々、「上下こもごも利を征りて国危うし」云々、「いやしくも義を後にして利を先にすることをせば、奪わずんば饜かず」となるのである。それゆえに真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでないと私は考える。
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『論語と算盤』処世と信条・論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いものこれはすなわち物を増殖する務めである。これが完全でなければ国の富はなさぬ。その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することが出来ぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめる事が、今日の緊要の務めと自分は考えているのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓明治六年官を辞して、年来の希望なる実業に入ることになってから、論語に対して特別の関係が出来た。それは始めて商売人になるという時、ふと心に感じたのは、これからはいよいよ銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志をいかに持つべきかについて考えた。その時前に習った論語のことを思い出したのである。論語には己を修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売は出来まいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることが出来ると考えたのである。
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『論語と算盤』算盤と権利・合理的の経営それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心にしていた。福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い、著者は常に自己のことよりも国家社会を利するという観念をもって筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理にほかならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とは言われない。仮りに一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばいかがなものであろうか。いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法試みに例えば石油であるとか、もしくは製粉であるとか、あるいは人造肥料であるというような業務について考えて見ても、もし利益を進めるという観念がなくて、成り行き次第でどうでもよいというような風にやったならば、決して事業が発達するものではない。富の増進するものでないことは明らかである。仮にもしその仕事が自己の利害に関係せず、人ごとに儲かっても己れの仕合わせにならぬ、損しても不仕合わせにならぬということであったならば、その事業は完全に進まぬけれども、己れの仕事であれば、この物を進めたい、この仕事を発達せしむるということは争うべからざる事実である。されば、もしそういう観念から他の事を凌いで、あるいは世の中の大勢を知らず、あるいは事情を察せずに、我さえ善ければよいということであったならば、いかになるか。必ずともにその不幸を蒙って、己れ一人を利そうと思った、その己れもまた不幸を蒙るということになるのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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