論語と算盤 / 常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道
斯く論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるといふ事になつて来るが、常識の養成に就ては別に詳説してあるから玆には省くとしても、矢張その根本は孝悌忠信の思想に拠らなければならぬ、忠と孝と此の二者より組立てたる意志を以て、何事も順序よく進ませるやうにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬に於て間然する所はないと信ずる、併しながら事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起るものでない、唐突に湧起したり、左なくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことが幾らもある、左様いふ機会には余り熟慮して居る時間がないから、即座に機宜を得た答をしなければ為らぬが、平素鍛錬を怠つた者には、其の場に適当な決定をすることが一寸出来難い、従つて勢ひ本心に反したやうな結末を見なければならぬ、故に何事も平素に於て能く鍛錬を重ねるならば、遂には其れが其人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであらう。
書き下し
かく論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるという事になって来るが、常識の養成については別に詳説してあるからここには省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信の思想によらなければならぬ。忠と孝とこの二者より組み立てたる意志をもって、何事も順序よく進ませるようにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬において間然する所はないと信ずる。しかしながら事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起こるものでない。唐突に湧き起こったり、さなくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことがいくらもある。そういう機会にはあまり熟慮している時間がないから、即座に機宜を得た答えをしなければならぬが、平素鍛錬を怠った者には、その場に適当な決定をすることがちょっと出来がたい。従って勢い本心に反したような結末を見なければならぬ。ゆえに何事も平素においてよく鍛錬を重ねるならば、ついにはそれがその人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであろう。
現代語訳
こう論じてくると、意志の鍛錬には常識が必要だということになるが、常識の養い方については別に詳しく述べてあるので、ここでは省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信(親への孝、年長者への悌、主君への忠、友への信)の思想に拠らなければならない。忠と孝、この二つから組み立てた意志によって、何事も順序よく進めるようにし、また何事によらず、じっくり考えて決断するなら、意志の鍛錬として非の打ちどころはないと信じる。しかしながら、事件はじっくり考える余地のある場合にだけ起こるものではない。突然持ち上がったり、そうでなくとも人と接したときなどに、その場で何とか返答しなければならないことがいくらでもある。そういうときは、あまり熟慮している時間がないから、即座に時宜にかなった答えをしなければならないが、ふだん鍛錬を怠っていた者には、その場で適切な決定をすることがなかなかできない。そのため、どうしても本心に反したような結末を迎えることになる。だから、何事もふだんからよく鍛錬を重ねていれば、ついにはそれがその人の習慣となって、何事に対しても動じることのない境地に至るであろう。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道例えば、道理を楯にして言葉巧みに勧められでもすると、思わず知らず、平生自己の主義主張とする所よりも反対の方向に踏み入らざるを得ないようになって行くものである。かくのごときは無意識のうちに自己の本心を滅却されてしまうこととなるのであるが、そのような場合に際会しても、頭脳を冷静にしてどこまでも自己を忘れぬように注意することが、意志の鍛錬の要務である。もしそういう場合に遭遇したなら、先方の言葉に対し、常識に訴えて自問自答して見るがよい。その結果、先方の言葉に従えば一時は利益に向かい得られるが、後日に不利益が起こって来るとか、あるいはこの事柄に対してこう処断すれば、目前は不利でも将来のためになるとか、明瞭に意識されるものである。もし目前の出来事に対し、かくのごとき自省が出来たならば、自己の本心に立ち帰るはすこぶる容易なことで、従って正に就き邪に遠ざかることが出来る。
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『論語と算盤』常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道余はかくのごとき手段方法がすなわち意志の鍛錬であると思うのである。一口に意志の鍛錬というものの、それには善悪の二者がある。例えば、石川五右衛門のごときは悪い意志の鍛錬を経たもので、悪事にかけてはすこぶる意志の鞏固な男であったと言って差支えない。けれども意志の鍛錬が人生に必要だからとて、何も悪い意志を鍛錬するの必要はないので、自分もまたそれについて説を立てる訳ではないが、常識的判断を誤った鍛錬の仕方をやれば、悪くすると石川五右衛門を出さぬとも限らない。それゆえ意志鍛錬の目標は、まず常識に問うてしかる後事を行うが肝要である。こうして鍛錬した心をもって事に臨み人に接するならば、処世上過誤なきものと言ってよろしかろうと思う。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか動きやすい情を控制するものは鞏固なる意志よりほかはない。しかり、意は精神作用中の本源である。鞏固なる意志があれば人生においては最も強みある者となる。けれどもいたずらに意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただ頑固者とか強情者とかいう人物となり、不理屈に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っていても、それを矯正しようとはせず、どこまでも我を押し通すようになる。もちろんこういう風の人も、ある意味から見れば尊ぶべき点がないでもないが、それでは一般社会に処すべき資格において欠けている。いわば精神的の片輪で完全の人とは言われない。意志の鞏固なる上に聡明なる智恵を加味し、これを調節するに情愛をもってし、この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行ったのが、始めて完全なる常識となるのである。現代の人はよく口癖のように意志を強く持てと言うが、意志ばかり強くてもやはり困り者で、俗にいう「猪武者」のような者になっては、いかに意志が強くても社会にあまり有用の人物とは言えないのである。
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『論語と算盤』人格と修養・平生の心掛が大切しかるにとかく人心は変態を生じがちのもので、常時は『かくあるべし』『かくすべし』と堅く決心していた者も、急転して知らず知らずに自ら自己の本心を誘惑し、平素の心事と全く別所にこれを誘うような結果をもたらすがごときは、常時における精神修養に欠くる所があり、意志の鍛錬が足らぬより生ずることである。かくのごときは随分修養も積み鍛錬を経た者でも惑わされることのないとは言われぬものだから、いわんや社会的経験の少ない青年時代などには、いやが上に注意を怠ってはならぬ。もし平生自己の主義主張としていたことが、事に当たって変化せねばならぬようなことがあるならば、よろしく再三再四熟慮するがよい。事を急激に決せず、慎重の態度をもってよく思い深く考えるならば、自ずと心眼の開くものもありて、ついに自己本心の住家に立ち帰ることが出来る。この自省熟考を怠るのは、意志の鍛錬にとって最も大敵であることを忘れてはならぬ。
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『論語と算盤』人格と修養・平生の心掛が大切総じて世の中のことは心のままにならぬが多い。独り形の上に表れている事物ばかりでなく、心に属することも間々そういうことがある。例えば、一度こうと心の中に堅く決心したことでも、何かふとしたことからにわかに変ずる。人から勧められてついにその気になると言ったような事もあるが、それが必ずしも悪意の誘惑でないまでも、心の遷転から起こることで、かくのごときは意志の弱いのであると言わねばなるまい。自ら決心して動かぬと覚悟していながら、人の言葉によりて変ずるがごときは、もとより意志の鍛錬の出来ているものではない。とかく平生の心掛けが大切である。平素その意中に『こうせよ』とか『こうせねばならぬ』とか、事物に対する心掛けが的確に決まっているならば、いかに他人が巧妙に言葉を操っても、うかとそれに乗せられるようなことはない訳だ。ゆえに何人も問題の起こらぬ時においてその心掛けを錬っておき、そして事に会し物に触れた時、それを順序よく進めるが肝要である。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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