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論語と算盤 / 常識と習慣・動機と結果

私は志の曲つた軽薄才子は嫌ひである、如何に所作が巧みでも、誠意のない人は与に伍するを懌ばないが、併し神ならぬ身には人の志まで見抜くといふことは容易でないから、自然志の良否は兎に角、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである、彼の陽明説の如きは、知行合一とか良知良能とか云つて、志に思ふことが其れ自身行為に現はれるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私共素人考へでは、志が善でも所作が悪になることもあり、又所作が善でも志が悪なることもあるやうに思はれる、私は西洋の倫理学や哲学といふやうなことは少しも知らぬ、唯四書や宋儒の学説に由つて、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するといふものがある、其人の言ふには、英国のミユアヘツドといふ倫理学者は、動機さへ善ならば、結果は悪でも可いといふ、

書き下し

私は志の曲がった軽薄才子は嫌いである。いかに所作が巧みでも、誠意のない人はともに伍するを懌ばないが、しかし神ならぬ身には人の志まで見抜くということは容易でないから、自然志の良否はともかく、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである。かの陽明説のごときは、知行合一とか良知良能とか言って、志に思うことがそれ自身行為に現れるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私ども素人考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪なることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学というようなことは少しも知らぬ。ただ四書や宋儒の学説によって、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するというものがある。その人の言うには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもよいという。

現代語訳

私は志の曲がった軽薄な才子は嫌いである。どれほど所作が巧みでも、誠意のない人とは一緒に並ぶ気にならない。しかし、神ならぬ身には人の志まで見抜くことは容易でないから、志の良し悪しはともかく、所作の巧みな人間に利用されないとも限らないのである。あの陽明学の説などは、知行合一とか良知良能とか言って、志に思うことがそのまま行為に現れるというのだから、志が善なら行為も善、行為が悪なら志も悪でなければならないことになる。だが、私たち素人の考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪であることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学といったものは少しも知らない。ただ四書や宋代の儒者の学説によって、多少、人の性についての議論や処世の道を研究しただけである。ところが、私のこうした意見について、期せずしてパウルゼン(ドイツの哲学者)の倫理説と一致すると言う人がいる。その人の言うには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもかまわないと言うのだそうだ。

解説

「動機と結果」の章の書き出しで、前章の志と所作の議論を倫理学の問題として引き継ぐ。渋沢はまず好き嫌いをはっきり言う。志の曲がった軽薄才子は嫌いだ、と。だが人の志は見抜けないから、所作の巧みな者に利用されることもある。次に彼は王陽明の知行合一を取り上げる。知と行は一体で、良知に従えば行いも正しくなるという陽明学の立場からすれば、志が善なら行為も善のはずだ。しかし素人考えでは、志が善でも所作が悪いことも、その逆もある、と渋沢は言う。自らを素人と呼び、西洋の倫理学は知らないと断りつつ、四書と宋学で鍛えた実感から論じる姿勢が面白い。そのうえで、ドイツのパウルゼンの倫理説と一致すると人に言われた、と西洋の議論へ橋を架ける。明治末から大正にかけての日本では西洋倫理学の紹介が盛んであり、渋沢も周囲の学者から話を聞いていたのだろう。東洋の古典と西洋の学説を、実務家の目で突き合わせているのである。

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