論語と算盤 / 常識と習慣・動機と結果
私はパウルゼンの説が果して真理か何うかは解らぬが、単に志が善ならば其の所作も善だといふミユアヘツドの説よりも、其の志と所作とを較量した上に善悪を定めるといふ説の方が確かなやうに思はれる。私が常に客を引見して質問に応へることを自分の義務として居るだけ、叮嚀にすると、又頼まれたから止むを得ぬと厭々ながらするのでは、同一の事柄でも其の志が非常に異なる、之と同時に同一の志でも、其の時と所に由つて大に事柄を異にする事もある、詰り土地に肥瘠あり時候に寒暖ある如く、吾人の思想感情も異なつて居るから、同一の志を以て向つても対者に由つて其の結果を異にするのである、だから人の行為の善悪を判断するには、よく其の志と所作の分量性質を参酌して考へねばならぬのである。
書き下し
私はパウルゼンの説が果して真理かどうかは解らぬが、単に志が善ならばその所作も善だというミュアヘッドの説よりも、その志と所作とを較量した上に善悪を定めるという説の方が確かなように思われる。私が常に客を引見して質問に応えることを自分の義務としているだけ丁寧にするのと、また頼まれたからやむを得ぬと厭々ながらするのとでは、同一の事柄でもその志が非常に異なる。これと同時に同一の志でも、その時と所によって大いに事柄を異にする事もある。つまり土地に肥瘠あり時候に寒暖あるごとく、吾人の思想感情も異なっているから、同一の志をもって向かっても、相手によってその結果を異にするのである。だから人の行為の善悪を判断するには、よくその志と所作の分量性質を参酌して考えねばならぬのである。
現代語訳
パウルゼンの説が本当に真理かどうかは私には分からない。だが、志さえ善ければ所作も善いのだというミュアヘッドの説よりは、志と所作の両方を比べ量ったうえで善悪を定める、という説のほうが確かだと思われる。私がいつも来客に会い質問に答えることを、自分の義務として丁寧にするのと、頼まれたから仕方なく嫌々やるのとでは、同じ行為でも志がまるで違う。同時に、同じ志であっても、時と場所によって事柄は大きく変わる。土地に肥えた痩せたがあり、季節に寒暖があるように、人の思想も感情もそれぞれ違うのだから、同じ志で向かっても、相手によって結果は変わる。だから人の行為の善悪を判断するには、志と所作の量と質をよく参酌して考えねばならないのである。
解説
この章句が説くこと
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『論語と算盤』常識と習慣・動機と結果私は志の曲がった軽薄才子は嫌いである。いかに所作が巧みでも、誠意のない人はともに伍するを懌ばないが、しかし神ならぬ身には人の志まで見抜くということは容易でないから、自然志の良否はともかく、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである。かの陽明説のごときは、知行合一とか良知良能とか言って、志に思うことがそれ自身行為に現れるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私ども素人考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪なることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学というようなことは少しも知らぬ。ただ四書や宋儒の学説によって、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するというものがある。その人の言うには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもよいという。
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『論語と算盤』常識と習慣・動機と結果いわゆる動機説で、その例として、クロムウェルが英国の危機を救わんがために、暗愚の君を弑し、自ら皇帝の位に上ったのは、倫理上悪でないと言っているが、今日最も真理として歓迎せらるるパウルゼンの説では、動機と結果すなわち志と所作の分量性質を仔細に較量して見なければならぬという。例えば、均しく国のためという戦の中にも、領土拡張の戦もあれば、国家存亡上やむを得ぬ戦もある。主権者としては均しく国家国民のために計ったとは言え、必ずしも領土拡張の必要もないのに、その開戦の時機を誤ったとすれば、その主権者の行為は悪である。けれどもその無謀の開戦も時宜に適して連戦連勝、大いに国を富まし民を啓くの基をなしたという場合には、その行為は善と言わねばならぬ。前例のクロムウェルの場合にも、幸いに英国の危機を救い得たから善いが、もし志ばかり熱烈であっても、最後に国を危うくするような結果を招いたとすれば、やはり悪行為と判断されねばならぬ。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても所作が正しいという理屈は、厳格に言えばあろうはずはないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て褒美をもらった。ところが、平素不良の一無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美をもらわんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構であると篤く労われたということである。また孟子の言に、「西子も不潔を蒙らば、すなわち人皆鼻を掩うてこれを過ぐ」というのがある。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切世間には冷酷無情にしていささかも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものがかえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きいるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものがかえって世に疎ぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。思うに人の行為の善悪は、その志と所作と相まって較量せねばなるまい。志がいかに真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪肆では何にもならぬ。志においてはあくまで人のためになれかしと思っていても、その所作が人の害となるようでは善行と言われぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っているのを見て、親切な子供が殻を剝いてやった所が、かえって死んでしまったという話があるが、孟子にもこれと同じような例がたくさんあったように記憶する。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切文句は一々覚えていないが、人のためを計ると言っても、その室に闖入してその戸を破る、これをしも忍ぶかと言ったような意味や、それから梁の恵王が政事を問うた時に、「庖に肥肉あり、厩に肥馬あり、民に饑色あり、野に餓莩あり、これ獣を率いて人を食ましむるものなり」と言って、刃をもって人を殺すも、政事をもって人を殺すも、同じだと断定している。それから告子と不動心説を論じた所に、「心に得ずとも気に求むることなかれとは可なれども、言に得ずも心に求むることなかれとは不可なり、それ志は気の帥なり、気は体の充てるなり、それ志は至れり、気は次ぐ、ゆえに曰く、その志を持してその気を暴うことなかれ」とある。これは志はすなわち心の本で、気は心の所作となって現れる末である。志は善で忠恕の道に契っていても、出来心と言ってふと志に適わぬことをすることが往々ある。だからその本心を持して出来心たる気を暴わぬよう、すなわち所作に間違いのないように不動心術の修養が肝要である。
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