論語と算盤 / 常識と習慣・何をか真才真智と謂ふ
而してその常識の発達に就ては、第一に必要なるは己れの境遇に注意するに在る、故に之を文字にて示さうものなら、『人は自己の境遇に能く注意をせねばならぬ』といふことにならうと思ふ、此の文字は或は適当でないかも知らぬが――私は西洋の格言などは余り知らぬから、常に東洋の経書に就てのみ例を引くが、論語に自己の境遇に就て注意を篤くすることを教へた例が、或は大きい場合、或は小さい場合に数多く見える、故に大聖人の孔子でも、やはり自己の境遇に適することを勉めた、又他に対しても其の境遇に不適当なる時は、必ずそれに賛同を与へぬ、一例を言へば、孔子が『道が行はれぬから桴に乗つて海に浮ばう、我に従ふものは其れ由か』と子路を促した、『子路これを聞いて喜ぶ』、是は孔子がチヨツと意地の悪いやうなことで、自分が問を掛けたのだから、子路が喜んだらう、
書き下し
そしてその常識の発達については、第一に必要なるは己れの境遇に注意するにある。ゆえにこれを文字にて示そうものなら、「人は自己の境遇によく注意をせねばならぬ」ということになろうと思う。この文字はあるいは適当でないかも知らぬが――私は西洋の格言などはあまり知らぬから、常に東洋の経書についてのみ例を引くが、論語に自己の境遇について注意を篤くすることを教えた例が、あるいは大きい場合、あるいは小さい場合に数多く見える。ゆえに大聖人の孔子でも、やはり自己の境遇に適することを勉めた。また他に対してもその境遇に不適当なる時は、必ずそれに賛同を与えぬ。一例を言えば、孔子が「道が行われぬから桴に乗って海に浮かぼう、我に従うものはそれ由か」と子路を促した。「子路これを聞いて喜ぶ」。これは孔子がちょっと意地の悪いようなことで、自分が問いを掛けたのだから、子路が喜んだろう。
現代語訳
そして、その常識の発達について第一に必要なのは、自分の境遇に注意することである。だからこれを言葉で示すとすれば、「人は自分の境遇によく注意しなければならない」ということになろうと思う。この言い方は適当でないかもしれないが――私は西洋の格言などはあまり知らないので、いつも東洋の経書からだけ例を引くのだが、論語には、自分の境遇に深く注意することを教えた例が、大きな場面にも小さな場面にも数多く見える。だから大聖人の孔子でさえ、やはり自分の境遇にふさわしくあるよう努めた。また他人に対しても、その人の境遇にふさわしくないときは、決して賛同を与えなかった。一例を挙げれば、孔子が「道が行われないから、いかだに乗って海に浮かぼう。私についてくるのは由(子路)だろうか」と子路を誘った。「子路はこれを聞いて喜んだ」。これは孔子が少し意地の悪いことをしたもので、自分から問いかけたのだから、子路が喜んだのも当然だろう。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふゆえにお互いに皆、孔子のごとき大聖人になるということは不可能か知らぬけれども、我が境遇位地をこれ誤らぬだけのことが出来るならば、少なくとも通常人以上になり得ることは難くないだろうと思う。しかるに世間はこの反対に走るもので、ちょっと調子が良いと、すぐに我が境遇を忘れて分量不相応の考えも出す。またある困難の事に遭遇すると、我が位置を失して打ち萎れてしまう。すなわち幸いに驕り災いに哀しむのが凡庸人の常である。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふまたある時孔子が宋に往って、帰途に大勢から囲まれ、ほとんど危害を受けそうになった。この時にも門人が憂えたら、孔子が言われるに、「天のまさに斯文を喪さんとするや、後死の者斯文に与かるを得ざるなり、天の斯文を喪さざるや、宋人それ予をいかん」と言って、泰然として一身の危害を少しも憂えなかった。またある場合には「大廟に入っては、事ごとに問う」。ある人これを怪しみて、鄹人の子は礼を知ってると言うが、大廟に入るとすべての事をうるさいほど尋ねる、あれでは礼を知ってるのではなかろうと言ったら、孔子は答えて曰く「これ礼なり」、それがすなわち礼を知ってるのだと言われた。誠に自身の境遇位地をよく知って、道理正しく活用するのがすなわち孔子の大聖人となり得る唯一の修養法であったように見える。して見ると孔子のごとき人でも、場合によって細事たりとも常に注意を怠らぬ。それがすなわち聖人に成り得る所以である。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふおよそ人の世に立つについて最も肝要なるものは、智慧を増して行かねばならぬ。すべて一身の発達、国家の公益を図るにも、智識というものがなければ進んで行くことは出来ぬけれども、しかしそれ以上に人は人格というものを養って行かなくてはならぬ。いわゆる人格の修養、これは極めて大切なことだろうと思う。ただし人格という定義はいかに論断せらるるか知らないが、稀には少しは非常識ともいうべき英雄豪傑に人格崇高な人があるから、果たして人格と常識が必ず一致するものであろうかどうか。人が完全に役に立ち、公にも私にも、必要にしていわゆる真才真智というのは、多くは常識の発達にあると言っても誤りないと思うのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふ自分も等しく喜びそうなものであるが、子路の喜ぶ程合いが、自己の境遇をよく知悉しなかったものと見えて、「由や勇を好む我に過ぎたり、材を取る所なし」と、かえって反対に戒めた。桴に乗って海に浮かぼうと言われた時に、子路が喜んだのであるが、もし子路がよく我が境遇を顧み知ったならば、「さあそうでもございましょうけれども、それについては海に浮かぶだけの材は、どうしたらよろしゅうございましょう」と答えたら、孔子が初めて我が意を得たりとして、それならば朝鮮へ行こうとか、日本へ行こうとか言われたかも知れぬ。またある時孔子が二三の弟子に志を言えと促した時に、最初に子路が意見を述べた。もし自己をして国を治めしむるならば、たちまちの間に一国を治平たらしむることが出来ると、卒爾として答えた。すると孔子は笑った。続いて銘々志を陳べて、最後に曾点という人が瑟を鼓していたのを、孔子が汝も何か言わぬかと促した。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかおよそ人として世に処するに際し、常識はいずれの地位にも必要で、またいずれの場合にも欠けてはならぬことである。しからば常識とはいかなるものであろうか。余は次のごとく解釈する。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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