論語と算盤 / 常識と習慣・親切らしき不親切
文句は一々覚えて居ないが、人の為を計ると云つても、其の室に闖入して其の戸を破る、之をしも忍ぶかと云つたやうな意味や、それから梁の恵王が政事を問ふた時に、『庖に肥肉あり、厩に肥馬あり、民に饑色あり、野に餓莩あり、これ獣を率ゐて人を食ましむるもの也』と曰つて、刃を以て人を殺すも、政事を以て人を殺すも、同じだと断定して居る、それから告子と不動心説を論じた所に、『心に得ずとも気に求むること勿れとは可なれども、言に得ずも心に求むること勿れとは不可なり、夫れ志は気の帥なり、気は体の充てるなり、夫れ志は至れり、気は次ぐ、故に曰く、其の志を持して其の気を暴ふこと無かれ』とある、これは志は即ち心の本で、気は心の所作となつて現はれる末である、志は善で忠恕の道に契つて居ても、出来心と云つて偶と志に適はぬことをすることが往々ある、だから其の本心を持して出来心たる気を暴はぬやう、即ち所作に間違のないやうに不動心術の修養が肝要である、
書き下し
文句は一々覚えていないが、人のためを計ると言っても、その室に闖入してその戸を破る、これをしも忍ぶかと言ったような意味や、それから梁の恵王が政事を問うた時に、「庖に肥肉あり、厩に肥馬あり、民に饑色あり、野に餓莩あり、これ獣を率いて人を食ましむるものなり」と言って、刃をもって人を殺すも、政事をもって人を殺すも、同じだと断定している。それから告子と不動心説を論じた所に、「心に得ずとも気に求むることなかれとは可なれども、言に得ずも心に求むることなかれとは不可なり、それ志は気の帥なり、気は体の充てるなり、それ志は至れり、気は次ぐ、ゆえに曰く、その志を持してその気を暴うことなかれ」とある。これは志はすなわち心の本で、気は心の所作となって現れる末である。志は善で忠恕の道に契っていても、出来心と言ってふと志に適わぬことをすることが往々ある。だからその本心を持して出来心たる気を暴わぬよう、すなわち所作に間違いのないように不動心術の修養が肝要である。
現代語訳
文句は一つ一つ覚えていないが、人のためを図ると言っても、その部屋に押し入って戸を破るようなことを、それでも忍べるのか、といった意味のことや、それから梁の恵王が政治について尋ねたときに、「台所には肥えた肉があり、厩には肥えた馬がいるのに、民は飢えた顔をし、野には餓死者が倒れている。これは獣を率いて人を食わせているのと同じだ」と言って、刃物で人を殺すのも政治で人を殺すのも同じだと断じている。それから告子と不動心について論じたところに、「心に納得できないことを気に求めるなというのはよいが、言葉で納得できないことを心に求めるなというのはよくない。そもそも志は気の総大将であり、気は体に満ちているものである。志が至れば、気はそれに次いで従う。だから言う、その志をしっかり保ち、その気を乱暴に扱ってはならない」とある。これは、志が心の本であり、気は心の所作となって現れる末だということである。志は善で忠恕の道にかなっていても、出来心といって、ふと志にそぐわないことをしてしまうことがしばしばある。だから本心をしっかり保って、出来心である気を暴れさせないように、つまり所作に間違いがないように、不動心の修養が肝要なのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切孟子自身は浩然の気を養ってこの修養に資したが、凡人はとかく所作に間違いを来しやすい。孟子はその例として「宋人有閔其苗之不長而揠之者、芒芒然帰、謂其人曰、今日病矣、予助苗長矣、其子趨而往視之、苗則槁矣云々」と、大いに告子を罵倒している。
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『慎思録』巻之一子の燕居するや、申申如たり、夭夭如たり。蓋し聖人を学ばんと欲する者は、須らく従容和楽を要すべし。是れ儒者平日の気象、宜しく此くの如くなるべし。心体は本隠微にして、未だ形迹に著れざれば、則ち執持すべからず。志は是れ心の之く所、気は体の充なり。人心の動静、気に資らざること無し。若し其の気を暴へば、則ち志も亦持し難くして、心体も亦之が為に動く。故に曰く、其の志を持して、其の気を暴ふこと勿かれと。此れ気を養ふの工夫にして、乃ち志を持し心を存するの道なり。蓋し心を養ふを以て主意と為し、気を和らぐるを以て工夫と為す。故に心を養ふの道は、気を養ふに在り。気を養ふの方は、和平にして暴ふこと無きを以て勤めと為す。此れ日用常行の緊要にして、学者の急務為り。然り而して後の学者、之を以て緊要と為すことを知らず。故に此の工夫を為す者極めて鮮し。今の学者、平日の気象言貌、都て是れ其の気を暴ふの事なり。且つ其の人に接するや、一言旨に忤ひ、一事合はざれば、則ち睚眦して怒りを発し、厲気払戻す。凡そ言行、気を使ふを以て尚しと為す者は、儒者の気象と為すべからず。明道の人に接するや、一団の和気、春風の中に坐せるが如し。是れ其の気を暴ふこと無きの至りなり。大賢の気象は、学者の当に則と為すべき所なり。
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『慎思録』巻之一心は隠微の中に在りて、未だ形迹の著るること有らず。之を操ること難し。情に発して後に迹有りて、善悪著る。此に於て操りて存すべし。情は気に由りて発す。故に正心の道は、養気に在り。養気とは、動静語黙、人に接し事に応ずるに、常に和平なるを要す。和平の道は、所謂其の志を持して其の気を暴ふこと勿きに在るのみ。大率日用常行の際、己を修め人に接するの道は、温恭を以て基と為す。堯は允恭克譲、舜は温恭允塞、夫子は温良恭倹譲、燕居申申夭夭。詩に曰く、温温たる恭人、惟れ徳の基と。管子弟子職に曰く、温恭自ら虚しくすと。聖賢の行ふ所、皆是れ這件の事なり。夫れ人の一身、心固より主為り、而して気専ら事を用ふ。故に七情思慮視聴言動、皆気の為す所なり。之を養ふに節を以てせざるべからず。若し其の気を暴へば、則ち其の道を失ふと為す。故に平生温恭和平にして以て気を養ふは、是れ即ち心を養ふ所以にして、心を養ふと気を養ふとは、二事に非ざるなり。
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『論語と算盤』人格と修養・平生の心掛が大切総じて世の中のことは心のままにならぬが多い。独り形の上に表れている事物ばかりでなく、心に属することも間々そういうことがある。例えば、一度こうと心の中に堅く決心したことでも、何かふとしたことからにわかに変ずる。人から勧められてついにその気になると言ったような事もあるが、それが必ずしも悪意の誘惑でないまでも、心の遷転から起こることで、かくのごときは意志の弱いのであると言わねばなるまい。自ら決心して動かぬと覚悟していながら、人の言葉によりて変ずるがごときは、もとより意志の鍛錬の出来ているものではない。とかく平生の心掛けが大切である。平素その意中に『こうせよ』とか『こうせねばならぬ』とか、事物に対する心掛けが的確に決まっているならば、いかに他人が巧妙に言葉を操っても、うかとそれに乗せられるようなことはない訳だ。ゆえに何人も問題の起こらぬ時においてその心掛けを錬っておき、そして事に会し物に触れた時、それを順序よく進めるが肝要である。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切世間には冷酷無情にしていささかも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものがかえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きいるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものがかえって世に疎ぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。思うに人の行為の善悪は、その志と所作と相まって較量せねばなるまい。志がいかに真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪肆では何にもならぬ。志においてはあくまで人のためになれかしと思っていても、その所作が人の害となるようでは善行と言われぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っているのを見て、親切な子供が殻を剝いてやった所が、かえって死んでしまったという話があるが、孟子にもこれと同じような例がたくさんあったように記憶する。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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