武道便蒙録 / 卷之一・気より先に志を立てよ
○新甫先生の云へるに、今人氣を發することを宗として、志を立る事を知らず、たとへば爐中に火を設る如し、心は爐なり、意は炭なり、精は火なり、氣は熱氣なり、火を能起せば、其氣は、おのづから發出す、炭の意より、火氣を出す事はならぬ也、然るを氣を第一に究竟の極秘と心得て、弓馬劒術とうの極意も、氣の取あつかひに心勞して、終に正氣を生ずる事をしらず、大學に、物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣、孟子曰、志氣之帥也、夫志至焉、氣次也焉、是志本也、氣末也、次也、禮記祭統曰、與志進退、志輕則亦輕、志重則亦重、輕其志而求外之重也、雖聖人弗能得也と、言は志輕則亦氣も輕し、志重則亦氣も重し、重は嚴重なり、世人志をば、末終の事にして、氣をとらへて、本始とするは、滅炭を扇ひて、火氣を求むるものなり、○武を以て家業とする者は、一日も武備を忘るべからず、士として武を忘るゝは、魚の水にはなるゝが如し、武を忘るゝに至ては、身を全くすることかたし、今文學に志す者を見るに、詩文章に身を致、言を高上にして、武備のごときは、底をたゝいて竭たるなり、しかりといへども、文學は學び得ることかたく、武術は學び得ることやすし、たとへば百武人は得るとも、一文士は得べからず、公卿につかはるゝ者は、歌道を心がくべし、武家に仕るゝ者は、文學を學ぶべし、文にもあらずして、武にもあらずして、飽暖逸居し、一生を終るは、松笠人形に、麥莖の帶刀さするに同じ、
新字:○新甫先生の云へるに、今人気を発することを宗として、志を立る事を知らず、たとへば炉中に火を設る如し、心は炉なり、意は炭なり、精は火なり、気は熱気なり、火を能起せば、其気は、おのづから発出す、炭の意より、火気を出す事はならぬ也、然るを気を第一に究竟の極秘と心得て、弓馬劒術とうの極意も、気の取あつかひに心労して、終に正気を生ずる事をしらず、大学に、物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣、孟子曰、志気之帥也、夫志至焉、気次也焉、是志本也、気末也、次也、礼記祭統曰、与志進退、志軽則亦軽、志重則亦重、軽其志而求外之重也、雖聖人弗能得也と、言は志軽則亦気も軽し、志重則亦気も重し、重は厳重なり、世人志をば、末終の事にして、気をとらへて、本始とするは、滅炭を扇ひて、火気を求むるものなり、○武を以て家業とする者は、一日も武備を忘るべからず、士として武を忘るゝは、魚の水にはなるゝが如し、武を忘るゝに至ては、身を全くすることかたし、今文学に志す者を見るに、詩文章に身を致、言を高上にして、武備のごときは、底をたゝいて竭たるなり、しかりといへども、文学は学び得ることかたく、武術は学び得ることやすし、たとへば百武人は得るとも、一文士は得べからず、公卿につかはるゝ者は、歌道を心がくべし、武家に仕るゝ者は、文学を学ぶべし、文にもあらずして、武にもあらずして、飽暖逸居し、一生を終るは、松笠人形に、麦茎の帯刀さするに同じ、
書き下し
○新甫先生の云へるに、今人氣を發することを宗として、志を立る事を知らず、たとへば爐中に火を設る如し、心は爐なり、意は炭なり、精は火なり、氣は熱氣なり、火を能起せば、其氣は、おのづから發出す、炭の意より、火氣を出す事はならぬ也、然るを氣を第一に究竟の極秘と心得て、弓馬劒術とうの極意も、氣の取あつかひに心勞して、終に正氣を生ずる事をしらず、大學に、物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣、孟子曰、志氣之帥也、夫志至焉、氣次也焉、是志本也、氣末也、次也、禮記祭統曰、與志進退、志輕則亦輕、志重則亦重、輕其志而求外之重也、雖聖人弗能得也と、言は志輕則亦氣も輕し、志重則亦氣も重し、重は嚴重なり、世人志をば、末終の事にして、氣をとらへて、本始とするは、滅炭を扇ひて、火氣を求むるものなり、○武を以て家業とする者は、一日も武備を忘るべからず、士として武を忘るゝは、魚の水にはなるゝが如し、武を忘るゝに至ては、身を全くすることかたし、今文學に志す者を見るに、詩文章に身を致、言を高上にして、武備のごときは、底をたゝいて竭たるなり、しかりといへども、文學は學び得ることかたく、武術は學び得ることやすし、たとへば百武人は得るとも、一文士は得べからず、公卿につかはるゝ者は、歌道を心がくべし、武家に仕るゝ者は、文學を學ぶべし、文にもあらずして、武にもあらずして、飽暖逸居し、一生を終るは、松笠人形に、麥莖の帶刀さするに同じ、
現代語訳
新甫先生が言うには、今の人は気を発することを第一とし、志を立てることを知りません。たとえば炉の中に火を設けるようなものです。心は炉、意は炭、精は火、気は熱気です。火をよくおこせば、熱気はおのずと出ます。炭の意から火の気を出すことはできません。それなのに、気を第一の究極の秘事と心得て、弓馬や剣術などの極意も気の扱いに心を労し、ついに正気を生じることを知りません。『大學』に「物には本末があり、事には終始がある。先後するところを知れば、道に近い」とあり、孟子は「志は気の帥(統率者)である。志が至れば、気はこれに次ぐ」と言います。つまり志が本で、気が末であり、次なるものです。『禮記』祭統には「志とともに進退する。志が軽ければ気も軽く、志が重ければ気も重い。その志を軽んじて外の重さを求めるなら、聖人でも得ることはできない」とあります。志が軽ければ気も軽く、志が重ければ気も重い、というのが言わんとすることで、重は厳重の意味です。世の人は志を末終のことにして、気をとらえて本始とします。それは消えた炭をあおいで火の気を求めるようなものです。○武を家業とする者は、一日も武備を忘れてはなりません。士として武を忘れるのは、魚が水を離れるようなものです。武を忘れるに至っては、身を全うすることは難しいのです。今、文学に志す者を見ると、詩文章に身を捧げ、言葉は高尚でも、武備のことは底をたたいて尽きたかのように空っぽです。とはいえ、文学は学び得ることが難しく、武術は学び得ることがたやすいものです。たとえば百人の武人は得られても、一人の文士は得られません。公卿に仕える者は歌道を心がけるべきで、武家に仕える者は文学を学ぶべきです。文でもなく武でもなく、飽食暖衣して安楽に暮らし、一生を終えるのは、松笠の人形に麦わらの帯刀をさせるのと同じです。
解説

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