論語と算盤 / 常識と習慣・悪んで其の美を知れ
成るほど爾う言はれて見ると、此評も或は然らんと、自ら思ひ当ることがないでもない、併しながら余は別に自己の主義とする所があつて、凡そ世事に処するに方つては、一身を立つると同時に社会の事に勤め、能ふ限り善事を殖し、世の進歩を図りたいとの意念を抱持して居る、従つて単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいふものは第二に置き、専ら国家社会の為に尽さんことを主意とするものである、されば人の為に謀つて善を為すことに心掛け、即ち人の能を助けて、其れを適所に用ゐたいとの念慮が多いのである、此の心掛が抑も世人から誤解を招くに至つた所以ではあるまいか。
書き下し
なるほどそう言われて見ると、この評もあるいはしからんと、自ら思い当たることがないでもない。しかしながら余は別に自己の主義とする所があって、およそ世事に処するに当たっては、一身を立つると同時に社会の事に勤め、能う限り善事を殖やし、世の進歩を図りたいとの意念を抱持している。したがって単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいうものは第二に置き、もっぱら国家社会のために尽くさんことを主意とするものである。されば人のために謀って善をなすことに心掛け、すなわち人の能を助けて、それを適所に用いたいとの念慮が多いのである。この心掛けがそもそも世人から誤解を招くに至った所以ではあるまいか。
現代語訳
なるほど、そう言われてみると、この評もあるいはそのとおりかもしれないと、自分でも思い当たることがないではない。しかしながら私には別に自分の主義とするところがあって、およそ世の中の事に当たっては、自分の身を立てると同時に社会のことに努め、できるかぎり善いことを増やし、世の進歩を図りたいという思いを抱いている。だから単に自分の富とか地位とか子孫の繁栄とかいうものは二の次にして、もっぱら国家社会のために尽くすことを主眼としているのである。そういうわけで、人のために考えて善を行うことを心がけ、つまり人の能力を助けて、それを適所に用いたいという思いが強いのである。この心がけこそが、そもそも世の人から誤解を招くことになった理由ではないだろうか。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れ余が実業界の人となって以来、接触する人も年々その数を増し、そしてそれらの人々が余の行う所に見倣いて、各々長ずる所によりて事業を精励すれば、たといその人自身は自己の利益のみを図るの目的に出るとしても、従事する業務が正しくありさえすれば、その結果は国家社会のためになるから、余は常にこれに同情し、その目的を達しさせてやりたいと思うている。これは単に直接利益を計る商工業者に対しての場合のみならず、文筆に携わる人に対しても、やはり同一主義の下に接して来た。例えば新聞雑誌等に従事している者が来て余に説を請う時にも、余が説を掲載して幾分なりともその価値を高め得るものとすれば、自説はたとい価あるものでないと思うても、請う人の真実心より出たものならばこれを斥けない。それらの人々の希望を容れてやるのは、ひとり希望する人のためのみならず、社会の利益の一部分ともなろうかと考えるので、非常に多忙の時間を割いてその要求に応ずる次第である。
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『論語と算盤』算盤と権利・合理的の経営それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心にしていた。福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い、著者は常に自己のことよりも国家社会を利するという観念をもって筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理にほかならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とは言われない。仮りに一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばいかがなものであろうか。いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れ余はややもすれば世人より誤解されて、渋沢は清濁併せ呑むの主義であるとか、正邪善悪の差別を構わぬ男であるとか評される。先頃もある者が来て真っ向から余に詰問し、「足下は日頃論語をもって処世上の根本主義とせられ、また論語主義をもって自ら行われつつあるにもかかわらず、足下が世話される人の中には、全く足下の主義と反し、むしろ非論語主義の者もあり、社会より指弾さるる人物をも、足下は平然としてこれを近づけ、虚然として世評に関せざるがごとき態度を取らるるが、かくのごときは足下が高潔なる人格を傷つくるものではあるまいか、その真意が聞きたい」とのことであった。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れそしてそれらの人の言って来た事柄でも、または知己から頼まれたことでも、道理にかなっていることであれば、余はその人のため、二つには国家社会のために自力の及ぶ程度において力を貸してやる。
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『論語と算盤』処世と信条・得意時代と失意時代しからば大事に処するにはいかにすればよいかというに、まず事に当たってよくこれを処理することが出来ようかということを考えて見なければならぬ。けれどもそれとて人々の思慮によるので、ある人は自己の損得は第二に置き、専らその事について最善の方法を考える。またある人は自己の得失を先にして考える。あるいは何物をも犠牲としてその事の成就を一念に思う者もあれば、これと反対に自家を主とし、社会のごときはむしろ眼中に置かぬ打算もあろう。けだし人は銘々その面貌の変わっているごとく、心も異なっているものであるから、一様に言う訳には行かぬが、もし余にどう考えるかと問わるれば、次のごとく答える。すなわち事柄に対しいかにせば道理に契うかをまず考え、そしてその道理に契ったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えて見た時、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にも契い、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨て、道理のある所に従うつもりである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・富豪と徳義上の義務だから自分がかく分限者になれたのも、一つは社会の恩だということを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいうものに対し、常に卒先して尽すようにすれば、社会はますます健全になる。それと同時に自分の資産運用もますます堅実になるという訳であるが、もし富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持し得るごとく考え、公共事業社会事業のごときを捨てて顧みなかったならば、ここに富豪と社会民人との衝突が起こる。富豪怨嗟の声はやがて社会主義となり、ストライキとなり、結局大不利益を招くようにならぬとも限らぬ。だから富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽すことを忘れてはならぬ。
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