論語と算盤 / 立志と学問・君子の争ひたれ
其後その男の進退に関し種々と申出る者もあり、又官庁内で上官に対し暴力を揮はんとしたは怪しからん抔と騒ぎ立てる者もあつたが、私は当人さへ非を覚り悔悟したなら、依然在職させて置く積りの所が、当の私より省中の者が憤慨して、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも打放つて置く訳に行かず、その男を免職せらるるに至つたのは、私が今猶ほ甚だ気の毒に思ふのである。
書き下し
その後その男の進退に関し種々と申し出る者もあり、また官庁内で上官に対し暴力を振るわんとしたはけしからんなどと騒ぎ立てる者もあったが、私は当人さえ非を悟り悔悟したなら、依然在職させておくつもりの所が、当の私より省中の者が憤慨して、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも打ち放っておく訳に行かず、その男を免職せらるるに至ったのは、私が今なお甚だ気の毒に思うのである。
現代語訳
その後、その男の進退についていろいろと申し出る者もあり、また官庁のなかで上官に暴力をふるおうとしたのはけしからんなどと騒ぎ立てる者もいた。私は、本人さえ非を悟って悔い改めるなら、そのまま在職させておくつもりでいたのだが、当の私よりも省内の者たちのほうが憤慨して、このいきさつを詳しく太政官に内申してしまった。太政官としても放っておくわけにはいかず、その男は免職されるに至った。このことを私は今でもたいへん気の毒に思っている。
解説
争いの後始末が、この話を単なる武勇伝から引き上げている。渋沢は相手が悔い改めれば在職させるつもりだった。争ったのは制度をめぐる理のためで、相手を追い落とすためではなかったからである。ところが周囲が憤慨して太政官に内申し、男は免職になった。渋沢はそれを今も気の毒に思う、と結ぶ。勝った側が勝利を誇らず、相手の処分を惜しむ。君子の争いとは、争点については譲らないが、人を憎まず、決着の後に報復を求めないことだ、とこの結末が示している。のちの「常識と習慣」の部で渋沢が語る、悪人を悪人として憎まないという態度にも通じる。組織の対立では、勝敗がついた後の振る舞いのほうが、周囲の信頼を大きく左右する。争点と人を切り分けられるかどうかが、角を持つ人の品位を決めるのである。
関連する章句
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれしかしその出納局長なる男は、ごうも私の言に耳を貸さぬのみか、二言三言言い争った末、満面はあたかも朱を注げるごとく紅くなって、直ちに拳固を振り上げ、私を目がけて打ってかかって来たのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれいやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることは出来ぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐のない人間でないつもりである。人間にはいかに円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私が絶対にいわゆる円満な人間でない、相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な所もある人物たることを証明するに足る……証明という語を用いるも少し異様だが……実際をちょっと談して見ようかと思う。私はもちろん、少壮の頃より腕力に訴えて他人と争うごときことをした覚えはない。しかし若い時分には今日と違って、容貌などにもよほど強情らしい所もあったもので、したがって他人の眼からは今日よりも容易に争いをしそうに見えたものかも知れぬ。もっとも私の争いは、若い時分から、すべて議論の上、権利の上での争いで腕力に流れた経験はいまだかつて一度もない。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその男は小背の私に比べれば、身長の高い方であったが、怒気心頭に発し、足がふらついていた上にあまり強そうにも見えず、私はとにかく、青年時代において相当に武芸も仕込まれ身を鍛えていたことでもあるから、あながち膂力が無いという訳でもなかった。かりそめにも暴行に訴えて無礼をしたら、一ひねりにひねってやるのは何でもないことだとは思ったが、その男が椅子から立ち上がって、拳を握り腕をあげ、阿修羅のごとくになって猛り狂い私に詰めかけて来るのを見るや、私もすぐ椅子を離れてヒラリ身をかわし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持って行き所に困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、すかさず泰然たる態度で、「ここはお役所でござるぞ、なんと心得召さる、車夫馬丁の真似をすることは許しませんぞ、お慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長もハッと悪いことをした、田夫野人の真似をしたということに気がついたものか、せっかく握り挙げた拳を引っ込めて、そのままスゴスゴと私のいた総務局長室を出て行ってしまったのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私も絶対に争いをせぬ人間であるかのように解せらるる人も、世間に少なからぬように見受けるが、私はもちろん、好んで他人と争うことこそせざれ、全く争いをせぬというではない。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男の言わんとする所を聴きとるつもりでいると、その男は伝票制度の実施に当たって手違いをしたことなどについては、一言の謝罪もせず、しきりに私が改正法を布いて欧州式の簿記法を採用したことについてのみ、かれこれと不平を並べるのであった。いったい貴公がアメリカに心酔して、一から十まであの国の真似ばかりしたがり、改正法なんかというものを発案して簿記法によって出納を行わせようとするから、こんな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法などを採用してくれさえせねば、我らもこんな過失をして、貴公などに責め付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言をほしいままにし、いささかたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私もその非理屈にはやや驚いたがなお憤らず、出納の正確を期せんとするには、ぜひとも欧州式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである。
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