論語と算盤 / 立志と学問・君子の争ひたれ
その男は小背の私に比べれば、身長の高い方であつたが、怒気心頭に発し、足がふらついて居た上に余り強さうにも見えず、私は兎に角、青年時代に於て相当に武芸も仕込まれ身を鍛へて居つたことでもあるから、強ち膂力が無いといふ訳でもなかつた、苟めにも暴行に訴へて無礼をしたら、一ト捻りに捻つてやるのは何でもないことだとは思つたが、その男が椅子から立ち上つて、拳を握り腕をあげ、阿修羅の如くになつて猛けり狂ひ私に詰めかけて来るのを見るや、私も直ぐ椅子を離れてヒラリ身を換はし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控へて後部に退き、その男が拳の持つて行き所に困り、マゴ〳〵して𨻶を生じたのを見て取るや、𨻶さず泰然たる態度で、『此所は御役所でござるぞ、何んと心得召さる、車夫馬丁の真似をすることは許しませんぞ、御慎みなさい』と一喝したものだから、その出納局長もハツト悪いことをした、田夫野人の真似をしたといふことに気がついたものか、折角握り挙げた拳を引つ込めて、そのま〻スゴスゴと私の居つた総務局長室を出て行つて仕舞つたのである。
書き下し
その男は小背の私に比べれば、身長の高い方であったが、怒気心頭に発し、足がふらついていた上にあまり強そうにも見えず、私はとにかく、青年時代において相当に武芸も仕込まれ身を鍛えていたことでもあるから、あながち膂力が無いという訳でもなかった。かりそめにも暴行に訴えて無礼をしたら、一ひねりにひねってやるのは何でもないことだとは思ったが、その男が椅子から立ち上がって、拳を握り腕をあげ、阿修羅のごとくになって猛り狂い私に詰めかけて来るのを見るや、私もすぐ椅子を離れてヒラリ身をかわし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持って行き所に困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、すかさず泰然たる態度で、「ここはお役所でござるぞ、なんと心得召さる、車夫馬丁の真似をすることは許しませんぞ、お慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長もハッと悪いことをした、田夫野人の真似をしたということに気がついたものか、せっかく握り挙げた拳を引っ込めて、そのままスゴスゴと私のいた総務局長室を出て行ってしまったのである。
現代語訳
その男は背の低い私に比べれば背の高いほうであったが、怒りが頭に上って足もとがふらついていたうえ、あまり強そうにも見えなかった。私はともかく、青年時代にそれなりに武芸も仕込まれ、体を鍛えていたこともあって、まったく腕力がないというわけでもなかった。かりにも暴力に訴えて無礼をはたらいたら、ひとひねりにひねってやるのは何でもないことだとは思った。しかし、その男が椅子から立ち上がり、拳を握って腕を上げ、阿修羅のようになって猛り狂い私に詰め寄ってくるのを見るや、私もすぐに椅子を離れてひらりと身をかわし、まったく顔色ひとつ変えずに、椅子を前に置いたまま二、三歩ほど後ろへ下がった。そしてその男が拳の持っていき場に困り、まごまごして隙ができたのを見て取るや、すかさず悠然とした態度で「ここはお役所でござるぞ。何と心得ておられる。車夫や馬丁のような真似をすることは許しませんぞ。お慎みなさい」と一喝した。するとその出納局長も、はっと悪いことをした、無作法な田舎者のような真似をしたと気がついたのか、せっかく握って振り上げた拳を引っ込め、そのまますごすごと、私のいた総務局長室を出ていってしまったのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれしかしその出納局長なる男は、ごうも私の言に耳を貸さぬのみか、二言三言言い争った末、満面はあたかも朱を注げるごとく紅くなって、直ちに拳固を振り上げ、私を目がけて打ってかかって来たのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私が絶対にいわゆる円満な人間でない、相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な所もある人物たることを証明するに足る……証明という語を用いるも少し異様だが……実際をちょっと談して見ようかと思う。私はもちろん、少壮の頃より腕力に訴えて他人と争うごときことをした覚えはない。しかし若い時分には今日と違って、容貌などにもよほど強情らしい所もあったもので、したがって他人の眼からは今日よりも容易に争いをしそうに見えたものかも知れぬ。もっとも私の争いは、若い時分から、すべて議論の上、権利の上での争いで腕力に流れた経験はいまだかつて一度もない。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその後その男の進退に関し種々と申し出る者もあり、また官庁内で上官に対し暴力を振るわんとしたはけしからんなどと騒ぎ立てる者もあったが、私は当人さえ非を悟り悔悟したなら、依然在職させておくつもりの所が、当の私より省中の者が憤慨して、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも打ち放っておく訳に行かず、その男を免職せらるるに至ったのは、私が今なお甚だ気の毒に思うのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれいやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることは出来ぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐のない人間でないつもりである。人間にはいかに円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男の言わんとする所を聴きとるつもりでいると、その男は伝票制度の実施に当たって手違いをしたことなどについては、一言の謝罪もせず、しきりに私が改正法を布いて欧州式の簿記法を採用したことについてのみ、かれこれと不平を並べるのであった。いったい貴公がアメリカに心酔して、一から十まであの国の真似ばかりしたがり、改正法なんかというものを発案して簿記法によって出納を行わせようとするから、こんな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法などを採用してくれさえせねば、我らもこんな過失をして、貴公などに責め付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言をほしいままにし、いささかたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私もその非理屈にはやや驚いたがなお憤らず、出納の正確を期せんとするには、ぜひとも欧州式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ明治四年私がちょうど三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めていた頃であったが、大蔵省の出納制度に一大改革を施し改正法なるものを布いて、西洋式の簿記法を採用し伝票によって金銭を出納することにした。ところが、当時の出納局長であった人が‥‥その姓名はしばらく預り置くが‥‥この改正法に反対の意見を持っていたのである。伝票制度の実施に当たってたまたま過失のあることを私が発見したので、当事者に対してこれを責めてやると、元来私が発案実施した改正法に反対の意見を持っていた出納局長という男が、傲岸な権幕で、一日私の執務していた総務局長室に押しかけて来たのである。
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