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論語と算盤 / 立志と学問・自ら箸を取れ

古語に『千里の道も跬歩よりす』と言つてある、仮令自分はモツと大きな事をする人間だと自信して居ても、其の大きな事は片々たる小さな事の集積したものであるから、何んな場合をも軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意を籠めて其の一事を完全に仕遂げやうと仕なければならぬ、秀吉が信長から重用された経験も正に是であつた、草履取の仕事を大切に勤め、一部の兵を托された時は一部将の任を完全にして居たから、其所に信長が感心して、遂に破格の抜擢を受け、柴田や丹羽と肩を並べる身分に成つたのである、故に受附なり帳附なり、与へられた仕事に其時の全生命をかけて真面目にやり得ぬ者は、謂ゆる功名利達の運を開くことは出来ない。

書き下し

古語に「千里の道も跬歩よりす」と言ってある。たとい自分はもっと大きな事をする人間だと自信していても、その大きな事は片々たる小さな事の集積したものであるから、どんな場合をも軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意を籠めてその一事を完全に仕遂げようとしなければならぬ。秀吉が信長から重用された経験もまさにこれであった。草履取の仕事を大切に勤め、一部の兵を托された時は一部将の任を完全にしていたから、そこに信長が感心して、ついに破格の抜擢を受け、柴田や丹羽と肩を並べる身分になったのである。ゆえに受附なり帳附なり、与えられた仕事にその時の全生命をかけて真面目にやり得ぬ者は、いわゆる功名利達の運を開くことは出来ない。

現代語訳

古い言葉に「千里の道も一歩から」とある。たとえ自分はもっと大きなことをする人間だと自負していても、その大きなことは、こまごまとした小さなことが積み重なってできたものである。だから、どんな場合も軽んじることなく、勤勉に、忠実に、誠意を込めて、その一つの仕事を完全にやり遂げようとしなければならない。秀吉が信長に重用されたいきさつも、まさにこれであった。草履取りの仕事を大切に勤め、一部の兵を預けられたときは一部将としての任務を完全に果たしていたから、そこに信長が感心して、ついに破格の抜擢を受け、柴田勝家や丹羽長秀と肩を並べる身分になったのである。だから、受付であれ帳簿つけであれ、与えられた仕事に、その時の全生命をかけて真面目に取り組めない者は、いわゆる功名を立てて出世する運を開くことはできない。

解説

章の結びである。「千里の道も跬歩よりす」は『荀子』勧学篇の「跬歩を積まざれば以て千里に至る無し」に通じる古語で、跬歩は片足ぶんの半歩を言う。大きな事は小さな事の集積だから、どの一事も軽んじるな、という理屈は前段と同じだが、ここでは秀吉の出世の順序として示される。草履取りを大切に勤め、一隊を預かれば一部将の任を完全に果たす。信長はその積み重ねを見て、柴田・丹羽と並ぶ地位へ抜擢した。最後の一句が強い。受付でも帳付でも、その時の全生命をかけよ。渋沢は仕事の大小と人の値打ちを結びつけない。結びつけるのは、目の前の一事への打ち込み方である。膳を据えるのは世間でも、箸を取るのは自分だ、という章の題は、この一句でようやく完結する。

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