論語と算盤 / 立志と学問・秀吉の長所と短所
秀吉が木下藤吉と称して信長に仕へ、草履取をして居つた頃、冬になれば藤吉の持つてた草履は、常に之を懐中に入れて暖めて置いたので、何時でも温かつたといふが、斯んな細かな事にまで亙る注意は余程の勉強でないと、到底行届かぬものである、また信長が朝早く外出でもしやうとする時に、まだ供揃ひの衆が揃ふ時刻で無くつても、藤吉ばかりは何時でも信長の声に応じて御供をするのが例であつたと伝へられて居るが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
書き下し
秀吉が木下藤吉と称して信長に仕え、草履取をしていた頃、冬になれば藤吉の持ってた草履は、常にこれを懐中に入れて暖めておいたので、いつでも温かかったというが、こんな細かな事にまで亘る注意はよほどの勉強でないと、到底行き届かぬものである。また信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃いの衆が揃う時刻でなくっても、藤吉ばかりはいつでも信長の声に応じてお供をするのが例であったと伝えられているが、これなども秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
現代語訳
秀吉が木下藤吉と名のって信長に仕え、草履取りをしていたころ、冬になると藤吉は預かっている草履をいつも懐に入れて温めておいたので、草履はいつでも温かかったという。こうした細かなことにまで行きわたる注意は、よほどの勉強家でなければ、とても行き届くものではない。また信長が朝早く外出しようとするとき、まだお供の者たちがそろう時刻でなくても、藤吉だけはいつでも信長の声に応じてお供をするのが常だったと伝えられているが、これなども秀吉が並外れた勉強家であったことを物語るものである。
解説
渋沢が秀吉の長所の筆頭に置いた「勉強」の中身を、具体的な逸話で示す一段である。ここでいう勉強は机に向かう学習ではなく、骨身を惜しまず務めに励むこと、今の言葉でいえば勤勉に近い。草履を懐で温めた話は後世の太閤記や講談で広まったもので、史実かどうかは定かでない。渋沢も「といふが」「伝へられて居るが」と伝聞の形で語っている。大事なのは逸話の真偽より、そこから引き出す教訓である。草履の温かさも、夜明けの呼び出しにすぐ応じることも、誰にも命じられていない。求められる前に、主人の必要を先回りして満たしている。渋沢は才気ではなく、この先回りの注意の積み重ねを非凡と呼んだ。小さな仕事に工夫の余地を見つけられるかどうかが、人の伸びしろを決めるのである。
関連する章句
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『論語と算盤』立志と学問・秀吉の長所と短所しかし豊太閤にもし最も大きな短所があったとすれば、それは家道の斉わなかった事と、機略があっても経略が無かった事とである。もしそれ豊太閤の長所はと言えば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気概である。かく列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所とも目すべきものは、その勉強である。私は秀吉のこの勉強に衷心より敬服し、青年子弟諸君にも、ぜひ秀吉のこの勉強を学んでもらいたく思うのである。事の成るは成るの日に成るにあらずして、その由来する所や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がったのは、ひとえにその勉強にある。
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『論語と算盤』立志と学問・自ら箸を取れかくお膳立てをして待っているのだが、これを食べるか否かは箸を取る人の如何にあるので、御馳走の献立をした上に、それを養ってやるほど先輩や世の中というものは暇でない。かの木下藤吉郎は匹夫から起こって、関白という大きな御馳走を食べた。けれど彼は信長に養ってもらったのではない。自分で箸を取って食べたのである。何か一と仕事しようとする者は、自分で箸を取らなければ駄目である。
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『論語と算盤』立志と学問・秀吉の長所と短所翌天正十一年がすぐ賤ケ岳の戦争になって、柴田勝家を滅ぼし、ついに天下を一統して、天正の十三年に秀吉もめでたく関白の位を拝するようになったのであるが、秀吉がかく天下を一統するまでに要した時間は、本能寺の変あって以来、わずかに満三年である。秀吉にはもとより天稟の勝れた他に異なるところもあったに相違ないが、秀吉の勉強がまったくこれをしからしめたものである。これより先、秀吉が信長に仕えてから間もなく、清洲の城壁をわずかに二日間に修築して信長を驚かしたという事も伝えられているが、これとても一概に稗史小説の無稽譚として観るべきでない。秀吉ほどの勉強をもってすれば、これぐらいの事は必ず出来たと思う。
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『論語と算盤』立志と学問・自ら箸を取れ古語に「千里の道も跬歩よりす」と言ってある。たとい自分はもっと大きな事をする人間だと自信していても、その大きな事は片々たる小さな事の集積したものであるから、どんな場合をも軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意を籠めてその一事を完全に仕遂げようとしなければならぬ。秀吉が信長から重用された経験もまさにこれであった。草履取の仕事を大切に勤め、一部の兵を托された時は一部将の任を完全にしていたから、そこに信長が感心して、ついに破格の抜擢を受け、柴田や丹羽と肩を並べる身分になったのである。ゆえに受附なり帳附なり、与えられた仕事にその時の全生命をかけて真面目にやり得ぬ者は、いわゆる功名利達の運を開くことは出来ない。
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『論語と算盤』立志と学問・秀吉の長所と短所乱世の豪傑が礼にならわず、とかく家道の斉わぬ例は、単に明治維新の際における今日のいわゆる元老ばかりではない。いずれの時代においても、乱世には皆そうしたものである。私なども家道が斉ってると口はばったく申し上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、やはり礼にならわず、家道の斉わなかった随一人である。もとより賞むべきではないが、乱世に生い立ったものには、どうもこんな事も致し方のない次第で、あまり酷には責むべきでもなかろうと思う。
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『論語と算盤』立志と学問・秀吉の長所と短所天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあって毛利輝元を攻めていたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率いて中国より引き返し、京都を去るわずかに数里の山崎で光秀の軍と戦い、ついにこれを破って光秀を誅し、その首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費やした日数は、信長が本能寺に弑せられてよりわずかに十三日、ただ今の言葉で申せば二週間以内のことである。鉄道もなく車もない、交通の不便この上なきその頃の世の中に、京都に事変のあったのが、一旦中国に伝えられた上で和議をまとめ、兵器から兵卒まで借り入れて京都へ引き返すまでに、事変後わずかに二週間を出でなかったというのは、まったく秀吉が尋常ならぬ勉強家であった証拠である。勉強がなければいかに機智があっても、いかに主君の仇を報ずる熱心があっても、かくまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであるというが、さだめしそうであったろうと思う。
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