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論語と算盤 / 立志と学問・秀吉の長所と短所

天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ゐて中国より引返し、京都を去る僅に数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、只今の言葉で申せば二週間以内のことである、鉄道もなく車も無い、交通の不便この上なき其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纒め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引返すまでに、事変後僅に二週間を出でなかつたと云ふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である、勉強がなければ如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものでは無い、備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであると云ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。

書き下し

天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあって毛利輝元を攻めていたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率いて中国より引き返し、京都を去るわずかに数里の山崎で光秀の軍と戦い、ついにこれを破って光秀を誅し、その首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費やした日数は、信長が本能寺に弑せられてよりわずかに十三日、ただ今の言葉で申せば二週間以内のことである。鉄道もなく車もない、交通の不便この上なきその頃の世の中に、京都に事変のあったのが、一旦中国に伝えられた上で和議をまとめ、兵器から兵卒まで借り入れて京都へ引き返すまでに、事変後わずかに二週間を出でなかったというのは、まったく秀吉が尋常ならぬ勉強家であった証拠である。勉強がなければいかに機智があっても、いかに主君の仇を報ずる熱心があっても、かくまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであるというが、さだめしそうであったろうと思う。

現代語訳

天正十年(一五八二年)、織田信長が明智光秀に殺されたとき、秀吉は備中にあって毛利輝元を攻めていたが、変事を聞くやただちに毛利氏と和睦し、弓と鉄砲を各五百、旗を三十、それに一隊の騎馬武者を輝元の手もとから借り受け、兵を率いて中国地方から引き返した。そして京都からわずか数里の山崎で光秀の軍と戦い、ついにこれを破って光秀を討ち、その首を本能寺にさらした。ここまでに秀吉が費やした日数は、信長が本能寺で殺されてからわずか十三日、今の言葉で言えば二週間以内のことである。鉄道もなく車もない、交通の不便このうえないその頃の世の中で、京都で起きた事変がいったん中国地方に伝わったうえで和議をまとめ、武器から兵卒まで借り入れて京都へ引き返すまでに、事変後わずか二週間を出なかったというのは、まったく秀吉が尋常でない勉強家であった証拠である。勉強がなければ、どれほど機知があっても、どれほど主君の仇を討とうという熱意があっても、これほどまでに万事を手早く運べるものではない。備中から摂津の尼崎まで昼夜兼行で進んできたというが、きっとそうであったろうと思う。

解説

世に言う中国大返しを、渋沢は勉強の証拠として読む。数字を並べて速さを強調するのが渋沢らしい。変から十三日、二週間以内。鉄道も車もない時代に、急報を受け、敵と和議を結び、兵器と兵を借り、京へ戻って勝つ。この連鎖のどこか一つでも滞れば間に合わない。ここで渋沢は、機智も忠義の熱心も必要条件にすぎないと言い切っている。本当に物を言うのは、日ごろから手を抜かず事を運ぶ習慣であり、それが非常時の速さになる。渋沢は第一国立銀行をはじめ五百余りの会社の設立に関わり、いくつもの事業を同時に回した人である。段取りの力を重く見るのは、その実感から来ている。危機に強い組織は、危機の日ではなく、平時の段取りによって作られるのである。

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