名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 草履を温めた忠志
○永祿元年九月朔日、秀吉、信長が鷹野に出し時、自訴して、遂に信長が草履取と成る。其頃信長年若なれば、夜々忍びて局へ通はれぬ。內々の事故、草履取計りにて、其外は召連れず、秀吉も供に出し故、頭に賴みけるは、某こと諸事見習申度候間、毎夜御供に罷出申度と望むに付、尤ものことゝて毎夜秀吉を出だしければ、信長不審し、草履取頭を呼て、秀吉を毎夜出だすは、古參共のおふちやくにてのことならんと叱りければ、頭承はり、秀吉こと達て願ひ申故、毎度、出だし候と申に依て、何つも供に召連れらる。或夜雪降り、信長、局より歸る時、下駄を召しけるに、暖か成りしかば、汝腰掛しこと不屆なりと言て、杖にて打たる。秀吉腰掛け申さずと言ふ。信長猶々腹立にて僞を申もの哉、成敗すべしと言ふ所に、局方より、女房出でてぞ詫言申しける。秀吉は、兎角腰は掛け申さずと言張る故、信長暖か成りしことこそ證據なりと言はる。秀吉寒夜故、御足冷くあるべしと存じ、懷に入れ暖か成る樣に致居候と申す。其證據はと尋ぬるに肌を脱きて見す。之を見るに、鼻緒の跡脊中に屹度付たり。是にて信長にも、秀吉が忠志を感じて、則ち草履取頭に成したり。秀吉は、頭に成りても何つも供に出る、供待をするに外の頭は上へ上り居り、草履取を外に出し置く。秀吉は草履取をば家の中に置て我身は外に出居る。信長之を見て不審せしに、秀吉箇樣の時には、戰場と違ひ御心も緩み申すなり、今亂世の時なれば、萬一敵方より忍び申者有間敷ことにあらず、夫故私は出居り候と申す。信長、益々其忠志を感ぜり。
新字:○永禄元年九月朔日、秀吉、信長が鷹野に出し時、自訴して、遂に信長が草履取と成る。其頃信長年若なれば、夜々忍びて局へ通はれぬ。内々の事故、草履取計りにて、其外は召連れず、秀吉も供に出し故、頭に頼みけるは、某こと諸事見習申度候間、毎夜御供に罷出申度と望むに付、尤ものことゝて毎夜秀吉を出だしければ、信長不審し、草履取頭を呼て、秀吉を毎夜出だすは、古参共のおふちやくにてのことならんと叱りければ、頭承はり、秀吉こと達て願ひ申故、毎度、出だし候と申に依て、何つも供に召連れらる。或夜雪降り、信長、局より帰る時、下駄を召しけるに、暖か成りしかば、汝腰掛しこと不届なりと言て、杖にて打たる。秀吉腰掛け申さずと言ふ。信長猶々腹立にて偽を申もの哉、成敗すべしと言ふ所に、局方より、女房出でてぞ詫言申しける。秀吉は、兎角腰は掛け申さずと言張る故、信長暖か成りしことこそ証拠なりと言はる。秀吉寒夜故、御足冷くあるべしと存じ、懐に入れ暖か成る様に致居候と申す。其証拠はと尋ぬるに肌を脱きて見す。之を見るに、鼻緒の跡脊中に屹度付たり。是にて信長にも、秀吉が忠志を感じて、則ち草履取頭に成したり。秀吉は、頭に成りても何つも供に出る、供待をするに外の頭は上へ上り居り、草履取を外に出し置く。秀吉は草履取をば家の中に置て我身は外に出居る。信長之を見て不審せしに、秀吉箇様の時には、戦場と違ひ御心も緩み申すなり、今乱世の時なれば、万一敵方より忍び申者有間敷ことにあらず、夫故私は出居り候と申す。信長、益々其忠志を感ぜり。
書き下し
○永祿元年九月朔日、秀吉、信長が鷹野に出し時、自訴して、遂に信長が草履取と成る。其頃信長年若なれば、夜々忍びて局へ通はれぬ。內々の事故、草履取計りにて、其外は召連れず、秀吉も供に出し故、頭に賴みけるは、某こと諸事見習申度候間、毎夜御供に罷出申度と望むに付、尤ものことゝて毎夜秀吉を出だしければ、信長不審し、草履取頭を呼て、秀吉を毎夜出だすは、古參共のおふちやくにてのことならんと叱りければ、頭承はり、秀吉こと達て願ひ申故、毎度、出だし候と申に依て、何つも供に召連れらる。或夜雪降り、信長、局より歸る時、下駄を召しけるに、暖か成りしかば、汝腰掛しこと不屆なりと言て、杖にて打たる。秀吉腰掛け申さずと言ふ。信長猶々腹立にて僞を申もの哉、成敗すべしと言ふ所に、局方より、女房出でてぞ詫言申しける。秀吉は、兎角腰は掛け申さずと言張る故、信長暖か成りしことこそ證據なりと言はる。秀吉寒夜故、御足冷くあるべしと存じ、懷に入れ暖か成る樣に致居候と申す。其證據はと尋ぬるに肌を脱きて見す。之を見るに、鼻緒の跡脊中に屹度付たり。是にて信長にも、秀吉が忠志を感じて、則ち草履取頭に成したり。秀吉は、頭に成りても何つも供に出る、供待をするに外の頭は上へ上り居り、草履取を外に出し置く。秀吉は草履取をば家の中に置て我身は外に出居る。信長之を見て不審せしに、秀吉箇樣の時には、戰場と違ひ御心も緩み申すなり、今亂世の時なれば、萬一敵方より忍び申者有間敷ことにあらず、夫故私は出居り候と申す。信長、益々其忠志を感ぜり。
現代語訳
永禄元年九月朔日、秀吉は、信長が鷹狩りに出たとき、自ら願い出て、ついに信長の草履取りとなった。そのころ信長は年が若かったので、夜ごと忍んで局へ通われた。内々のことなので、草履取りだけで、その他は連れず、秀吉も供に出たため、頭に頼んで、私は何事も見習いたいので、毎夜お供に出たいと望んだので、もっともなこととして毎夜秀吉を出したところ、信長は不審に思い、草履取りの頭を呼んで、秀吉を毎夜出すのは、古参の者たちの横着でのことだろうと叱ると、頭は承って、秀吉がたって願いますので、いつも出しております、と申したので、いつも供に召し連れられた。ある夜、雪が降り、信長が局から帰るとき、下駄を履こうとすると暖かだったので、お前、腰掛けたのは不届きである、と言って、杖で打たれた。秀吉は、腰掛けておりません、と言う。信長はなおさら腹を立て、偽りを言う者だ、成敗する、と言うところに、局のほうから女房が出てきて詫びを申した。秀吉は、あくまで腰は掛けておりませんと言い張るので、信長は、暖かだったのこそ証拠だ、と言われた。秀吉は、寒い夜なのでお御足が冷たかろうと存じ、懐に入れて暖かくなるようにしておりました、と申す。その証拠はと尋ねると、肌を脱いで見せた。これを見ると、鼻緒の跡が背中にくっきりとついていた。これで信長も、秀吉の忠志に感じ入り、そこで草履取りの頭にした。秀吉は、頭になってもいつも供に出た。供待ちをするのに、ほかの頭は上へ上がっており、草履取りを外に出しておく。秀吉は草履取りを家の中に置いて、我が身は外に出ていた。信長はこれを見て不審に思ったが、秀吉が、このような時には、戦場と違ってお心も緩むものです、今は乱世のことですから、万一敵方から忍び込む者がないとも限りません、それゆえ私は外に出ております、と申した。信長はますますその忠志に感じ入った。
解説

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『論語と算盤』立志と学問・秀吉の長所と短所秀吉が木下藤吉と称して信長に仕え、草履取をしていた頃、冬になれば藤吉の持ってた草履は、常にこれを懐中に入れて暖めておいたので、いつでも温かかったというが、こんな細かな事にまで亘る注意はよほどの勉強でないと、到底行き届かぬものである。また信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃いの衆が揃う時刻でなくっても、藤吉ばかりはいつでも信長の声に応じてお供をするのが例であったと伝えられているが、これなども秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 叱られても退かぬ粘り○三年、秀吉、上言して曰く、清洲城水に乏し、小牧山に移り給ふこそ然るべからめと。信長も内々然るべしとは思ひ居たれども、勞費を憚て定かには言はれざる所に、差出たることゝ言ひ、且つ諸人の水に乏きを知るを惡み、大に叱て、猿め何をか知らん、妄言を吐き、下として上を制する其罪死に當れりと言はれけり。凡そ秀吉、事を申せば則ち叱斥せらる。人皆あれ程面皮の厚かりしは見も聞きもせぬ抔と聞くや、聞かぬ計りに、日引鼻引笑ひけり。去れども、秀吉は露も意となさず、深く信長に結ばんとせり。 ○秀吉は、堪忍強し。微賤の時、同伴の者に溝へ突落されて泥塗れに成たりけれど、大望ある故に、曾て刃傷鬪爭のことなかりしとなり。 ○六年、信長河獵して兵を閲し、戲れに、秀吉を以て將と爲す。秀吉之を部勒指麾すること兵法に老いたるものゝ如し。 ○信長、兵を美濃に出す時、見馴れぬ旗あり、誰ぞと問ふ。木下藤吉郎が旗なりと申ければ、夫は誰が免したるぞとて、以の外怒り、既に旗竿を切り折らせける。去れども少しも恨むる氣色なく、意色自如たり。
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名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 降人の命を守る○秀吉、謀を以て宇留馬の城主大澤次郎左衞門を信長に降參させ、清洲に同道して、信長へ謁見さす。信長、密に秀吉を召して、此大澤は武勇の者なれども、心の變じ易き者なり、味方に頼むこと如何なり、今夜汝が計らひにて腹を切らせよと言はる。秀吉聞て、御意御尤もなれども、降參の者に腹を切らせなば、重ねて降參申者有間敷、只御赦免候はば、御爲め然るべしと申せども聽かず。秀吉我家に歸て熟々思ひけるに、君命を守れば、重ねて味方へ降參の者あるまじ、又之を歸さば信長の怒に逢はんと思ひ、密に大澤を招いて、御邊是までは、我等介抱申たれども、當所に久しく居給はゞ一定難儀に逢ひ給ふべし、早々何方へなりとも御開き候へ、若し亦路次にて討れじやとも、思召さば、我を連れて退かれよとて、刀、脇差を抛ち無刀になり、打解けて申聞かせければ、大澤も是までの御芳志忝き由、懇に禮謝して、清洲より脱走せり。諸豪傑之を聞き、屬するを願ふ者多し。
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