論語と算盤 / 立志と学問・現在に働け
此の有様が追々嘉永安政頃には、自然に一般の空気に変遷を起して、経世済民の学問を受けた武士は、尊王攘夷を唱へて遂に維新の大改革を成したのである。私は維新後、間もなく大蔵省の役人となつたが、此の当時は日本には物質的科学的教育は殆んど無いと云つても可い位であつた、武士的教育には種々高尚なものがあつたが、農工商には殆んど学問はなかつた、のみならず、普通の教育のことを論じても低級で、多くは政治教育といふ風で、海外交通が開けても、それに対する智識といふものが無かつたのである、如何に国を富まさうと思つても、それに対する智識などは更にない、一つ橋の高等商業学校は明治七年に出来たものであるが、幾度か廃校せられんとしたのである、これは乃ち当時の人が、商人などに高い智識などは要らないと思つて居つた為である、
書き下し
この有様が追々嘉永安政頃には、自然に一般の空気に変遷を起こして、経世済民の学問を受けた武士は、尊王攘夷を唱えてついに維新の大改革を成したのである。私は維新後、間もなく大蔵省の役人となったが、この当時は日本には物質的科学的教育はほとんど無いと言ってもよいくらいであった。武士的教育には種々高尚なものがあったが、農工商にはほとんど学問はなかった。のみならず、普通の教育のことを論じても低級で、多くは政治教育という風で、海外交通が開けても、それに対する智識というものが無かったのである。いかに国を富まそうと思っても、それに対する智識などはさらにない。一つ橋の高等商業学校は明治七年に出来たものであるが、幾度か廃校せられんとしたのである。これはすなわち当時の人が、商人などに高い智識などは要らないと思っていたためである。
現代語訳
こうした状態が、嘉永・安政のころになると次第に世の空気を変えていき、経世済民の学問を受けた武士が尊王攘夷を唱えて、ついに維新の大改革を成しとげたのである。私は維新後まもなく大蔵省の役人になったが、当時の日本には物質的・科学的な教育はほとんどないと言ってよいほどであった。武士の教育には高尚なものがいろいろあったが、農工商にはほとんど学問がなかった。それどころか、普通教育について論じても程度が低く、多くは政治教育という風で、海外との交通が開けても、それに対応する知識というものがなかった。どれほど国を富ませようと思っても、そのための知識がまったくないのである。一ツ橋の高等商業学校(のちの一橋大学)は明治七年にできたものだが、何度も廃校にされかかった。これはつまり、当時の人々が、商人などに高い知識はいらないと思っていたからである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』理想と迷信・廓清の急務なる所以一と揺ぎ揺いでここに維新の大改革となった。治める人治めらるる人の分界を去り、また商売人の範囲も狭い区域にあったものが、世界を股にかけての大活動を試みなければならぬということになり、また日本内地だけの商売でも、主なる品物の運送、蓄積等は、従来たいてい政府の力によって行われておったものが、それも一切個人でしなければならぬという風に遷り変わって来た。商人から言えば全く新天地が開かれたのである。そして彼等もまた相当の教育を受けねばならぬことになった。商であれ工であれ、一の手続を教え、あるいは地理、あるいは物品、品目に、あるいは商業の歴史に、とにかく、商売を繁昌させるについての必要な智識だけは、世界の粋を抜いて教えるという風になった。けれどもそれは主として実業教育であって、道徳教育ではなかった。むしろそういう事は措いて問題にしなかった。そこで自分の富を増そうとする人が続々と出て来る。にわか分限が出る。僥倖で大富を得た者もある。それが刺激となり誘惑となって、誰でもそういうことを狙うようになる。
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『論語と算盤』教育と情誼・理論より実際ところで、自分に最も関係の深い実業方面の教育について見るに、その昔にありては、実業教育と名付くべきほどのものはなかったが、維新以後になっても、明治十四五年の頃までは、この方面にはいささかの進歩を見ることは出来なかった。商業学校のごときも、その発達はわずかこの二十年ほどの間のことである。一体文明の進歩ということは政治、経済、軍事、商工業、学芸等がことごとく進んで、そこに始めて見ることが出来るので、その中のいずれか一が欠如しても、完全なる発達、文明の進歩のあるものではない。しかるに日本では、その文明の一大要素である商工業が、久しい間閑却して顧みられずにあった。翻って欧州の諸列強に見るに、他の方面の事ももちろん進歩しているが、その中でも取りわけ進んでいるのが実業である。すなわち商工業である。
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『論語と算盤』立志と学問・現在に働け私などは海外に交通するには、どうしても科学的智識が必要であるということを、声を嗄らして叫んだが、幸いにも追々その機運が起こって、明治十七八年にはこうした傾向が盛んになって、間もなく才学ともに備わった人が輩出するに至ったのである。それから以後今日までわずか三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらい物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである。徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明らかであるが、またこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少なくはなかったのであるが、今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っているといってよいと思う。すなわち精神教育がまったく衰えて来ると思うのである。
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『論語と算盤』立志と学問・現在に働け徳川時代の末路でも、因襲のしからしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されていたのである。そして武士は皆修身斉家を本として、ただ自己一身を修めるのみではなく、他をも治めるという主義で、すべて経世済民を主眼としていた。農工の教育は、他人を治め国家をいかにするかというような考えを持たせる教育ではなく、至って卑近な教育であった。当時の人は武士的教育を受ける人はまことに少ないので、すべて教育はいわゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、または富豪の老人などが教育してくれたものである。農工商はほとんど国内だけのもので、海外などにはごうも関係がなかったものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである。そして主なる商品は幕府および藩が運送、販売等の機軸を握っていたので、農工商民の関係する所は実に狭いものであった。当時のいわゆる平民は一種の道具であった。甚だしいのは武士は無礼打、切捨御免という惨酷な野蛮極まる行為を平気でやっていたものである。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
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『論語と算盤』立志と学問・一生涯に歩むべき道武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことは出来ないものであろうか、今日の言葉を借りて言えば、政治家として国政に参与して見たいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いをしでかした原因であった。かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今この事を追憶するだになお痛恨に堪えぬ次第である。
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