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論語と算盤 / 立志と学問・現在に働け

徳川時代の末路でも、因襲の然らしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されて居つたのである、而して武士は皆修身斉家を本として、唯自己一身を修めるのみでは無く、他をも治めるといふ主義で、凡て経世済民を主眼として居つた、農工の教育は、他人を治め国家を如何するかといふやうな考を持たせる教育ではなく、至つて卑近な教育であつた、当時の人は武士的教育を受ける人は洵に少いので、総て教育は謂ゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、又は富豪の老人などが教育して呉れたものである、農工商は殆んど国内だけのもので、海外などには毫も関係がなかつたものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである、而して主なる商品は幕府及び藩が運送、販売等の機軸を握つて居つたので、農工商民の関係する所は実に狭いものであつた、当時の謂ゆる平民は一種の道具であつた、甚しいのは武士は無礼打、切捨御免といふ惨酷な野蛮極まる行為を平気でやつて居つたものである。

書き下し

徳川時代の末路でも、因襲のしからしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されていたのである。そして武士は皆修身斉家を本として、ただ自己一身を修めるのみではなく、他をも治めるという主義で、すべて経世済民を主眼としていた。農工の教育は、他人を治め国家をいかにするかというような考えを持たせる教育ではなく、至って卑近な教育であった。当時の人は武士的教育を受ける人はまことに少ないので、すべて教育はいわゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、または富豪の老人などが教育してくれたものである。農工商はほとんど国内だけのもので、海外などにはごうも関係がなかったものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである。そして主なる商品は幕府および藩が運送、販売等の機軸を握っていたので、農工商民の関係する所は実に狭いものであった。当時のいわゆる平民は一種の道具であった。甚だしいのは武士は無礼打、切捨御免という惨酷な野蛮極まる行為を平気でやっていたものである。

現代語訳

徳川時代の末期においても、古くからのしきたりのせいで、一般の商工業者に対する教育と武士の教育とはまったく区別されていた。武士はみな修身斉家(身を修め家を整えること)を根本とし、ただ自分一身を修めるだけでなく、他人をも治めるという方針で、すべて経世済民(世を治め民を救うこと)を主眼としていた。農民や職人の教育は、他人を治め国家をどうするかという考えを持たせる教育ではなく、ごく身近で程度の低い教育であった。当時、武士としての教育を受ける人はきわめて少なく、教育はおしなべていわゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、あるいは裕福な家の老人などが教えてくれたものである。農工商はほとんど国内だけで営まれ、海外とは少しの関係もなかったから、農工商の人々には程度の低い教育で足りたのである。しかも主な商品は、幕府や藩が運送や販売などの要所を握っていたので、農工商の民がかかわる範囲は実に狭いものであった。当時のいわゆる平民は、一種の道具であった。ひどい場合には、武士は無礼打ち、切り捨て御免という残酷で野蛮きわまる行為を平気でやっていたのである。

解説

「現在に働け」の章は、教育の歴史から説き起こされる。渋沢がまず描くのは、江戸末期の身分と教育の分断である。武士は修身斉家から経世済民へと至る「人を治める学問」を受け、農工商は寺子屋の読み書き算盤で足りるとされた。商品流通の要所も幕府と藩が握っていたから、商人の世界は狭く、平民は「一種の道具」だった、と渋沢は書く。無礼打・切捨御免を「野蛮極まる」と断じる語気には、武蔵国血洗島の農家に生まれ、若き日に領主の代官から御用金を命じられて侮られた渋沢自身の憤りが重なっている。この一段が置かれるのは、のちに「精神の向上を富と共に」と説くための前提としてである。商人に高い学問は要らないという考えこそ、渋沢が生涯をかけて覆そうとしたものだった。

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