論語と算盤 / 立志と学問・精神老衰の予防法
其れまでの間は年寄がやはり十分に働くことを心懸ける外なからうと思ふのである、而して文明の老人たるには、身体は縦ひ衰弱するとしても、精神が衰弱せぬやうにしたい、精神を衰弱せぬやうにするは学問に依る外はない、常に学問を進めて時代に後れぬ人であつたならば、私は何時までも精神に老衰といふことは無からうと思ふ、是の故に私は単に肉塊の存在たるは人として甚だ嫌ふので、身体の世に在る限りは、どうぞ精神をも存在せしめたいと思ふのである。
書き下し
それまでの間は年寄りがやはり十分に働くことを心懸ける外なかろうと思うのである。そうして文明の老人たるには、身体はたとい衰弱するとしても、精神が衰弱せぬようにしたい。精神を衰弱せぬようにするは学問による外はない。常に学問を進めて時代に後れぬ人であったならば、私はいつまでも精神に老衰ということは無かろうと思う。このゆえに私は単に肉塊の存在たるは人として甚だ嫌うので、身体の世に在る限りは、どうぞ精神をも存在せしめたいと思うのである。
現代語訳
それまでの間は、年寄りがやはり十分に働くよう心がけるほかないと思う。そして文明の老人であるためには、身体はたとえ衰えるとしても、精神は衰えないようにしたい。精神を衰えさせないためには、学問による以外にない。常に学問を進めて時代に遅れない人でありさえすれば、精神に老衰ということはいつまでも起こらないと思う。だから私は、ただの肉のかたまりとして在ることを人として大変に嫌う。身体がこの世にある限りは、どうか精神もまた存在させておきたいのである。
解説
章の題は「精神老衰の予防法」で、答えは一行、学問である。渋沢はこの章で、青年論ばかりが盛んなことに異を唱える。三十まで学んだ者が五十五で老衰して引っ込めば、働ける時間は二十年少々しかない。だから老年も大事だ、自分は「文明の老人」でありたい、と言う。予防法が学問である理由は、時代に後れないことに置かれている。知識の量ではなく、更新をやめないこと。やめた瞬間に、身体が動いていても精神は止まる——それを彼は「単に肉塊の存在」と呼んで嫌った。渋沢がこれを書いたのは七十代半ばで、当人が漢学の講義を子どもたちと並んで聴き続けていた時期にあたる。
この章句が説くこと
文明の老人精神老衰学問を進める肉塊の存在学び志
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