論語と算盤 / 処世と信条・蟹穴主義が肝要
次に青年の最も注意すべきことは、喜怒哀楽である、特に青年のみならず、凡そ人間が処世の道を誤るのは、主として七情の発作宜しきを得ざるが為で、孔子も『関睢は楽んで淫せず、哀しんで傷らず』といつて、深く喜怒哀楽の調節の必要なることを述べて居られる、私共も酒も飲めば遊びもしたが、淫せず傷らずといふことを常に限度として居た、之を要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠を以て律すると言ふより外何物もないのである。
書き下し
次に青年の最も注意すべきことは、喜怒哀楽である。特に青年のみならず、およそ人間が処世の道を誤るのは、主として七情の発作宜しきを得ざるがためで、孔子も『関睢は楽しんで淫せず、哀しんで傷らず』といって、深く喜怒哀楽の調節の必要なることを述べておられる。私どもも酒も飲めば遊びもしたが、淫せず傷らずということを常に限度としていた。これを要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠をもって律するというより外何物もないのである。
現代語訳
次に青年が最も注意すべきことは、喜怒哀楽である。青年に限らず、およそ人間が処世の道を誤るのは、主として七情(喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲)の発し方が適切でないためであり、孔子も「関雎の詩は、楽しんでも度を過ごさず、哀しんでも心を傷つけない」と言って、喜怒哀楽の調節が必要であることを深く述べておられる。私どもも酒も飲めば遊びもしたが、度を過ごさず、心を傷つけないということを常に限度としていた。要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠をもって律するということよりほかに何もないのである。
解説
蟹穴主義の章の終わり近くで、渋沢は喜怒哀楽の調節を説く。人が処世の道を誤るのは、主として七情の発し方が宜しきを得ないためである。引かれるのは八佾篇の「関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず」で、詩経の冒頭の詩「関雎」を、楽しさも哀しさも度を越さない調和の取れた詩と孔子が評した言葉である。渋沢は、自分も酒も飲めば遊びもしたと隠さず、そのうえで淫せず傷らずを常に限度にしていたと言う。そして全体を締めくくって、自分の主義は誠意誠心、何事も誠をもって律することに尽きると述べる。箸の上げ下ろし、自分を知ること、感情の調節と並べてきたものは、すべて誠という一本の軸でつながっている。怒りに任せた一言や、浮かれた勢いの判断で失うものの大きさを、経営者なら知っているはずである。
関連する章句
-
『論語と算盤』処世と信条・蟹穴主義が肝要私の処世の方針としては、今日まで忠恕一貫の思想でやり通した。古来宗教家道徳家というような人に碩学鴻儒がたくさん輩出して、道を教え法を立てたけれども、畢竟それは修身――すなわち身を修めるという一事に尽きているだろうと思う。その修身も回りくどく言えばむずかしいが、分かり易く言えば、箸の上げ下ろしの間の注意にも、十分その意義が含まれているだろうと思われる。私はその意味において、家族に対しても、客に対しても、その他手紙を見るにも何を見るにも誠意をもってしている。孔子はこの意味を『入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者、摂斉升堂、鞠躬如也、屛気、似不息者、出降一等、逞顔色、怡々如也、没階趨進、翼如也、復其位、踧踖如也』の中に遺憾なく説いておられる。また、享礼、聘招、衣服、起臥についても諄々と説かれ、食物の段に至って、『食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色悪不食、臭悪不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食』云々と言っておられる。これらはごく卑近な例だが、道徳や倫理はこれら卑近のうちに籠っているのであろうと思う。
-
『論語と算盤』処世と信条・蟹穴主義が肝要私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守るということを心掛けている。これでも今から十年ばかり前に、ぜひ大蔵大臣になってくれだの、また日本銀行の総裁になってくれだのという交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があって実業界に穴を掘って這入ったのであるから、今更その穴を這い出すことも出来ないと思って固く辞してしまった。孔子は「もって進むべくんば進み、もって止まるべくんば止まり、もって退くべくんば退く」と言っておられるが、実際人はその出処進退が大切である。しかしながら分に安んずるからと言って、進取の気象を忘れてしまっては何にもならぬ。業もし成らずんば死すとも還らずとか、大功は細瑾を顧みずとか、男子ひとたび意を決す、すべからく乾坤一擲の快挙を試むべしなどと言うが、その間にも必ず己が分を忘れてはならぬ。孔子は「心の欲する所に従って矩を踰えず」と言われたが、つまり分に安んじて進むのがよかろうと思う。
-
『論語と算盤』処世と信条・蟹穴主義が肝要箸の上げ下ろしの注意が出来れば、次に心掛くべきは自分を知るということである。世の中には随分自分の力を過信して非望を起こす人もあるが、あまり進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、飛んだ間違いを惹き起こすことがある。
-
『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁すまた修養のために偽君子となり、卑屈に陥るならば、その修養は誤れる修養であって、我々の常に言う修養ではないと思う。人は天真爛漫が善いということは私も最も賛成する所であるが、人の七情すなわち喜怒哀楽愛悪欲の発動が、いついかなる場合にも差し支えないとは言われぬ。聖人君子も発して節に中るのである。ゆえに修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
-
『論語と算盤』理想と迷信・この熱誠を要す何事でも自己の掌ることに深い趣味をもって尽しさえすれば、自分の思う通りにすべてが行かぬまでも、心から生ずる理想もしくは慾望のある一部に適合し得られるものと思う。孔子の言に「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とある。けだしこれは趣味の極致と考える。自分の職掌に対しては必ずこの熱誠がなくてはならぬのである。
-
『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私は世間で覧らるるほどに、決していわゆる円満の人間ではない。一見いわゆる円満のようでも、実際はどこかにいわゆる円満でない所があろうと思う。若い時分にはもとよりそうであったが、七十の坂を越した今日といえども、私の信ずる所を動かしこれを覆そうとする者が現るれば、私は断々乎としてその人と争うことを辞せぬのである。私が信じて自ら正しいとする所は、いかなる場合においても決して他に譲ることをせぬ。ここが私のいわゆる円満でない所だと思う。人には老いたると若いとの別なく、誰にでもこれだけの不円満な所がぜひあってほしいものである。しからざれば人の一生もまったく生き甲斐のない無意味なものになってしまう。いかに人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、あまりに円満になり過ぎると、過ぎたるはなお及ばざるがごとしと、論語の先進篇にも孔夫子が説かれている通りで、人として全く品位のないものになる。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る