孔子家語 / 好生
孔子曰:「小辯害義,小言破道,關睢興於鳥而君子美之,取其雄雌之有別;鹿鳴興於獸,而君子大之,取其得食而相呼。若以鳥獸之名嫌之,固不可行也。」
新字:孔子曰:「小弁害義,小言破道,関睢興於鳥而君子美之,取其雄雌之有別;鹿鳴興於獣,而君子大之,取其得食而相呼。若以鳥獣之名嫌之,固不可行也。」
書き下し
孔子曰わく、「小辯は義を害し、小言は道を破る。関睢は鳥に興りて君子之を美とす、其の雄雌の別有るを取ればなり。鹿鳴は獣に興りて、君子之を大とす、其の食を得て相い呼ぶを取ればなり。若し鳥獣の名を以て之を嫌わば、固より行わる可からざるなり。」
現代語訳
孔子は言った。「些末な弁舌は大きな道義を損ない、些末な言葉尻へのこだわりは大道を壊してしまう。『関雎』の詩は水鳥を題材にして興を起こしているが、君子はこれを美しいと評価する。それは、雌雄が互いを区別しつつ節度をわきまえている姿を取り上げているからだ。『鹿鳴』の詩は鹿を題材にして興を起こしているが、君子はこれを立派だとする。それは、鹿が食べ物を見つけると仲間を呼び合う姿を取り上げているからだ。もし鳥や獣が題材になっていることそのものを嫌って詩を退けるようなことをすれば、そもそも詩というものは成り立たなくなってしまう。」
解説
『詩経』の「関雎」「鹿鳴」という、それぞれ水鳥や鹿を題材にした詩を例に挙げ、詩の本質は題材そのものの表面的な事象ではなく、そこに託された意味を読み取ることにあると孔子が説いた言葉です。冒頭で「小辯は義を害し、小言は道を破る」と述べているように、些末な言葉尻や表面的な題材にこだわりすぎると、その詩や言葉が本来伝えようとしている大切な道理を見失ってしまうと警告しています。「関雎」は雌雄の節度ある関係を、「鹿鳴」は仲間を思いやる心を象徴的に描いており、鳥や獣が主題であること自体を問題にすべきではないという指摘です。表面的な形式や字面にとらわれず、その奥にある本質的な意味を読み取る読解の姿勢を説いた言葉といえます。
この章句が説くこと
関雎鹿鳴小弁害義詩経本質を読む
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