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論語と算盤 / 処世と信条・蟹穴主義が肝要

私の処世の方針としては、今日まで忠恕一貫の思想でやり通した、古来宗教家道徳家といふやうな人に碩学鴻儒が沢山輩出して、道を教へ法を立てたけれども、畢竟それは修身――即ち身を修めるといふ一事に尽きて居るだらうと思ふ、其の修身も𢌞りくどく言へば六ケ敷いが、解り易く云へば、箸の上げ下しの間の注意にも、十分その意義が含まれて居るだらうと思はれる、私は其の意味に於て、家族に対しても、客に対しても、其他手紙を見るにも何を見るにも誠意を以てして居る、孔子は此の意味を『入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者、摂斉升堂、鞠躬如也、屛気、似不息者、出降一等、逞顔色、怡々如也、没階趨進、翼如也、復其位、踧踖如也』の中に遺憾なく説いて居られる、又、享礼、聘招、衣服、起臥に就ても諄々と説かれ、食物の段に至つて、『食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色悪不食、臭悪不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食』云々と言つて居られる、是等は極く卑近な例だが、道徳や倫理は是等卑近の裡に籠つて居るのであらうと思ふ。

書き下し

私の処世の方針としては、今日まで忠恕一貫の思想でやり通した。古来宗教家道徳家というような人に碩学鴻儒がたくさん輩出して、道を教え法を立てたけれども、畢竟それは修身――すなわち身を修めるという一事に尽きているだろうと思う。その修身も回りくどく言えばむずかしいが、分かり易く言えば、箸の上げ下ろしの間の注意にも、十分その意義が含まれているだろうと思われる。私はその意味において、家族に対しても、客に対しても、その他手紙を見るにも何を見るにも誠意をもってしている。孔子はこの意味を『入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者、摂斉升堂、鞠躬如也、屛気、似不息者、出降一等、逞顔色、怡々如也、没階趨進、翼如也、復其位、踧踖如也』の中に遺憾なく説いておられる。また、享礼、聘招、衣服、起臥についても諄々と説かれ、食物の段に至って、『食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色悪不食、臭悪不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食』云々と言っておられる。これらはごく卑近な例だが、道徳や倫理はこれら卑近のうちに籠っているのであろうと思う。

現代語訳

私の処世の方針としては、今日まで忠恕一貫の思想でやり通してきた。昔から宗教家や道徳家といった人々の中に大学者が数多く現れて、道を教え、法を立ててきたが、つまるところそれは修身、すなわち身を修めるという一事に尽きているだろうと思う。その修身も、回りくどく言えば難しいが、分かりやすく言えば、箸の上げ下ろしのあいだの注意にも、十分その意味が含まれているだろうと思われる。私はその意味で、家族に対しても、客に対しても、そのほか手紙を読むにも何を見るにも、誠意をもって接している。孔子はこの意味を、「君主の門に入るときは、身をかがめてかしこまり、門が狭くて入れないかのようにする。立つときは門の中央に立たず、歩くときは敷居を踏まない。君主の席の前を通るときは顔色を改め、足取りを慎み、言葉は足りないかのように控えめにする。裾をからげて堂に上るときは身をかがめてかしこまり、息をひそめて呼吸していないかのようにする。退出して一段降りると顔色をゆるめ、にこやかになる。階段を降りきると小走りに進み、翼を広げたように端正である。自分の位置に戻ると、うやうやしく慎む」という一節の中に、余すところなく説いておられる。また、享礼(贈り物の儀礼)や使者の礼、衣服、起居についても丁寧に説かれ、食物の段になると、「飯は精白したものを嫌わず、なますは細く切ったものを嫌わない。飯が饐えて味が変わったもの、魚が腐り肉が傷んだものは食べない。色の悪いものは食べない。においの悪いものは食べない。煮加減を誤ったものは食べない。季節外れのものは食べない。切り方の正しくないものは食べない。それにふさわしい醤がなければ食べない」などと言っておられる。これらはごく身近な例だが、道徳や倫理はこうした身近なことの中にこもっているのであろうと思う。

解説

蟹穴主義が肝要、の章は、渋沢の処世の方針を忠恕一貫と述べるところから始まる。里仁篇で曾子が「夫子の道は忠恕のみ」と言ったように、忠は自分の真心を尽くすこと、恕は相手の身になって思いやることである。渋沢は、古今の宗教家や道徳家の教えは結局修身に尽き、修身は箸の上げ下ろしの注意にまで含まれると言う。その例として郷党篇が長々と引かれる。君主の門をくぐる身のこなし、堂に上り下りする所作、食べ物の選び方まで、孔子の日常の細部が記録された篇である。道徳や倫理は高尚な議論の中ではなく、こうした卑近な振る舞いの中にこもっている、というのが渋沢の結論である。大きな理念を掲げる経営者ほど、日々のメールの返し方や約束の時間の守り方で見られている。修身の現場は日常の所作にある。

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