論語と算盤 / 処世と信条・大丈夫の試金石
真の逆境とは如何なる場合をいふか、実例に徴して一応の説明を試みたいと思ふ、凡そ世の中は順調を保つて平穏無事にゆくのが普通であるべき筈ではあるが、水に波動のある如く、空中に風の起るが如く、平静なる国家社会すらも、時としては革命とか変乱とかいふことが起つて来ないとも断言されない、而してこれを平静無事な時に比すれば明かに逆であるが、人も亦此の如き変乱の時代に生れ合ひ、心ならずも其の渦中に捲き込まれるは不幸の者で、斯ういふのが真の逆境に立つといふのではあるまいか、果して然らば余も亦逆境に処して来た一人である、余は維新前後世の中が最も騒々しかつた時代に生れ合ひ、様々の変化に遭遇して今日に及んだ、顧みるに維新の際に於けるが如き世の変化に際しては、如何に智能ある者でも、また勉強家でも、意外な逆境に立つたり、或は順境に向ふたりしないとは言はれない、
書き下し
真の逆境とはいかなる場合をいうか、実例に徴して一応の説明を試みたいと思う。およそ世の中は順調を保って平穏無事にゆくのが普通であるべき筈ではあるが、水に波動のあるごとく、空中に風の起こるがごとく、平静なる国家社会すらも、時としては革命とか変乱とかいうことが起こって来ないとも断言されない。そしてこれを平静無事な時に比すれば明らかに逆であるが、人もまたこのごとき変乱の時代に生まれ合い、心ならずもその渦中に巻き込まれるは不幸の者で、こういうのが真の逆境に立つというのではあるまいか。果たしてしからば余もまた逆境に処して来た一人である。余は維新前後世の中が最も騒々しかった時代に生まれ合い、さまざまの変化に遭遇して今日に及んだ。顧みるに維新の際におけるがごとき世の変化に際しては、いかに智能ある者でも、また勉強家でも、意外な逆境に立ったり、あるいは順境に向かったりしないとは言われない。
現代語訳
真の逆境とはどのような場合をいうのか、実例に照らして一通りの説明を試みたいと思う。およそ世の中は、順調を保って平穏無事に進むのが普通であるはずだが、水に波が立つように、空に風が起こるように、平静な国家社会でさえ、時には革命や変乱といったことが起こらないとは断言できない。そしてこれを平穏無事なときと比べれば明らかに逆であるが、人がこのような変乱の時代に生まれ合わせ、心ならずもその渦中に巻き込まれるのは不幸なことで、こういうのが真の逆境に立つということではないだろうか。もしそうであるなら、私もまた逆境に処してきた一人である。私は維新前後の、世の中が最も騒がしかった時代に生まれ合わせ、さまざまな変化に遭遇して今日に至った。振り返ってみると、維新のときのような世の変化に際しては、どれほど知恵や能力のある者でも、また勉強家でも、思いがけない逆境に立ったり、あるいは順境に向かったりすることがないとは言えない。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石しかし自然的逆境は大丈夫の試金石であるが、さてその逆境に立った場合はいかにその間に処すべきか。神ならぬ身の余は別にそれに対する特別の秘訣を持つものではない。また恐らく社会にもそういう秘訣を知った人はなかろうと思う。しかしながら余が逆境に立った時、自ら実験したところ、および道理上から考えて見るに。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石もし何人でも自然的逆境に立った場合には、第一にその場合に自己の本分であると覚悟するのが唯一の策であろうと思う。足るを知りて分を守り、これはいかに焦慮すればとて、天命であるから仕方がないとあきらめるならば、いかに処し難き逆境に居ても、心は平らかなるを得るに相違ない。しかるにもしこの場合をすべて人為的に解釈し、人間の力でどうにかなるものであると考えるならば、いたずらに苦労の種を増すばかりか、労して功のない結果となり、ついには逆境に疲れさせられて、後日の策を講ずることも出来なくなってしまうであろう。ゆえに自然的の逆境に処するに当たっては、まず天命に安んじ、おもむろに来るべき運命を待ちつつ、たわまず屈せず勉強するがよい。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石したがってその渦中に投ぜられて逆境に立つ人も常にあることであろうから、世の中に逆境は絶対に無いと言い切ることは出来ないのである。ただ順逆を立つる人は、よろしくそのよって来る所以を講究し、それが人為的逆境であるか、ただしは自然的逆境であるかを区別し、しかる後これに応ずるの策を立てねばならぬ。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石現に余は最初尊王討幕、攘夷鎖港を論じて東西に奔走していたものであったが、後には一橋家の家来となり、幕府の臣下となり、それより民部公子に随行して仏国に渡航したのであるが、帰朝して見れば幕府は既に亡びて世は王政に変わっていた。この間の変化のごときは、あるいは自分に智能の足らぬことはあったであろうが、勉強の点については自己の力一杯にやったつもりで、不足はなかったと思う。しかしながら社会の遷転、政体の革新に遇うては、これをいかんともするあたわず、余は実に逆境の人となってしまったのである。その頃逆境におって最も困難したことは今もなお記憶している。当時困難したものは余一人だけでなく、相当の人材中に余と境遇を同じうした者はたくさんにあったに相違ないが、かくのごときは畢竟大変化に際して免れ難い結果であろう。ただしこんな大波瀾は少ないとしても、時代の推移につれて、常に人生に小波瀾あることは止むを得ない。
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『論語と算盤』成敗と運命・順逆の二境は何れより来るか以上述べた所よりすれば、余は逆境はないものであると絶対に言い切りたいのであるが、そうまで極端に言い切れない場合が一つある。それは智能才幹何一つの欠点もなく、勤勉精励、人の師表と仰ぐに足るだけの人物でも、政治界実業界に順当に志の行われてゆく者と、その反対に何事も意と反して蹉跌する者とがある。そうして後者のごとき者に対して、余は真意義の逆境なる言葉を用いたいのである。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石それに反して、人為的逆境に陥った場合はいかにすべきかというに、これは多く自働的なれば、何でも自分に省みて悪い点を改めるより外はない。世の中の事は多く自働的のもので、自分からこうしたいああしたいと奮励さえすれば、たいがいはその意のごとくになるものである。しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、かえって手前の方からほとんど故意にねじけた人となって逆境を招くような事をしてしまう。それでは順境に立ちたい、幸福な生涯を送りたいとて、それを得られる筈がないではないか。
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