論語と算盤 / 処世と信条・争ひの可否
殊に後進の揚足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、之を罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、之を悪ざまに言ひ罵り、「一体貴公の親からして宜しく無い」なぞとの語を能く口にしたがるものである、随つて斯る先輩の下にある後進は、若し一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思ふから、どうしても奮発する気になるものである。
書き下し
ことに後進の揚げ足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、これを罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、これを悪しざまに言い罵り、「一体貴公の親からしてよろしくない」なぞとの語をよく口にしたがるものである。したがってかかる先輩の下にある後進は、もし一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思うから、どうしても奮発する気になるものである。
現代語訳
とくに後進の揚げ足を取るのが得意な先輩は、後進の欠点や失敗を責めつけ、罵り嘲るだけでは満足せず、その親の名まで引き合いに出して悪しざまに言い罵り、「そもそも君の親からしてよくない」などという言葉をよく口にしたがるものである。したがって、そういう先輩の下にいる後進は、もしひとたび失敗があれば、自分が二度と世に立てなくなるだけでなく、親の名まで辱め、一家の恥になると思うから、どうしても奮起する気になるものである。
解説
厳しい先輩の極端な姿として、親の名まで持ち出して罵る者が描かれる。一体貴公の親からして宜しく無い、という言葉は、今日なら明らかに行き過ぎであり、人格攻撃として許されない。渋沢がこれを書いたのは、家の名誉が個人の行動を強く縛っていた明治・大正の社会であり、家の恥という感覚も時代の価値観として読む必要がある。そのうえで渋沢が指摘しているのは、失敗の重みが自分一人にとどまらないと知ったとき、人はどうしても奮発する、という心理である。自分の失敗が誰の名に関わるのかを意識すれば、仕事への注意は自然に深まる。会社の看板、チームの信用、紹介してくれた人の顔。罵倒される必要はないが、自分の行いが背負っているものを思い出すことはできる。
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否いかに欠点があっても、また失策しても、あくまで庇護してくれる先輩の懇篤なる親切心は、誠に有難いものであるに相違ないが、かかる先輩しかないということになれば、後進の奮発心を甚だしく沮喪させるものである。たとえ失策しても先輩が恕してくれる、甚だしきに至っては、いかなる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救ってくれるから、あらかじめ心配する必要は無いなど、至極暢気に構えて、事業に当たるにも綿密なる注意を欠いたり、軽躁な事をしたりするような後進を生ずるに至り、どうしても後進の奮発心を鈍らす事になるものである。これに反し、後進をガミガミ責めつけて、常に後進の揚足を取ってやろうやろうという気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬようにと心懸け、あの人に揚足を取られるような事があってはならぬから、と自然身持にも注意して不身持なことをせず、怠るようなことも慎み、一体に後進の身が締まるようになるものである。
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否他の種類はちょうどこれの正反対で、いつでも後進に対するに敵国の態度をもってし、後進の揚げ足を取ることばかりをあえてして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば、すぐガミガミと怒鳴りつけて、これを叱り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもすると、もう一切構いつけぬというほどに、つらく後進に当たる人である。かく一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるような事もあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、かかる先輩は果たして後進の利益にならぬものだろうか。この点は篤と青年子弟諸君において熟考せられて然るべきものだろうと思う。
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否後進を誘掖輔導せらるる先輩にも、大観したところで、二種類の人物があるかのごとくに思われる。その一は、何事も後進に対して優しく親切に当たる人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいうような事をせず、あくまで懇篤と親切とをもって後進を引き立て、決して後進の敵になるごとき挙動に出でず、いかなる欠点失策があっても、なおその後進の味方となるを辞せず、どこどこまでも後進を庇護して行こうとするのを持ち前とせられている。こういう風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母のごとくに懐かれ慕わるるものであるが、かかる先輩が果たして後進のために真の利益になるかどうかは、いささか疑問である。
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『論語と算盤』立志と学問・自ら箸を取れ誰が仕事を与えるにしても、経験のない若い人に、初めから重い仕事を授けるものではない。藤吉郎の大人物をもってしても、初めて信長に仕えた時は、草履取という詰らぬ仕事をさせられた。乃公は高等の教育を受けたのに、小僧同様に算盤を弾かせたり、帳面をつけさせたりするのは馬鹿馬鹿しい、先輩なんていうものは人物経済を知らぬものだなどと、不平をいう人もあるが、これはすこぶるもっとものようだがしかももっともでない。なるほどひとかどの人物に詰らぬ仕事をさせるのは、人物経済上から見てすこぶる不利益の話だが、先輩がこの不利益をあえてする意思には、そこに大なる理由がある。決して馬鹿にした仕向けではない。その理由はしばらく先輩の意中に任せて、青年はただその与えられた仕事を専念に行っていかなければならぬ。
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『論語と算盤』立志と学問・社会と学問との関係元来人情の通弊として、とかくに功を急ぎ大局を忘れて、勢い事物に拘泥し、わずかな成功に満足するかと思えば、さほどでもない失敗に落胆する者が多い。学校卒業生が社会の実務を軽視し、実際上の問題を誤解するのも、多くはこのためである。ぜひともこの誤れる考えは改めねばならぬが、その参考として学問と社会との関係を考察すべき例を挙げると。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝は強ふべきものに非ず幸いにかかることにもならず、及ばぬうちにも不孝の子にならずに済んだのは、父が私に孝を強いず、寛宏の精神をもって私に臨み、私の思うままの志に向かって私を進ましめて下された賜物である。孝行は親がさせてくれて初めて子が出来るもので、子が孝をするのでは無く、親が子に孝をさせるのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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