論語と算盤 / 処世と信条・争ひの可否
後進を誘掖輔導せらる〻先輩にも、大観した所で、二種類の人物があるかの如くに思はれる、その一は、何事も後進に対して優しく親切に当る人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいふやうな事をせず、飽くまで懇篤と親切とを以て後進を引立て、決して後進の敵になる如き挙動に出でず、如何なる欠点失策があつても、猶ほ其の後進の味方となるを辞せず、何所々々までも後進を庇護して行かうとするのを持前とせられて居る、斯ういふ風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母の如くに懐かれ慕はる〻ものであるが、斯る先輩が果して後進の為に真の利益になるか如何かは、些か疑問である。
書き下し
後進を誘掖輔導せらるる先輩にも、大観したところで、二種類の人物があるかのごとくに思われる。その一は、何事も後進に対して優しく親切に当たる人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいうような事をせず、あくまで懇篤と親切とをもって後進を引き立て、決して後進の敵になるごとき挙動に出でず、いかなる欠点失策があっても、なおその後進の味方となるを辞せず、どこどこまでも後進を庇護して行こうとするのを持ち前とせられている。こういう風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母のごとくに懐かれ慕わるるものであるが、かかる先輩が果たして後進のために真の利益になるかどうかは、いささか疑問である。
現代語訳
後進を導き助ける先輩にも、大きく見ると、二種類の人物があるように思われる。その一つは、何事につけ後進に優しく親切に接する人で、決して後進を責めたりいじめたりするようなことはせず、あくまで手厚さと親切さをもって後進を引き立て、決して後進の敵になるような振る舞いに出ることなく、どんな欠点や失敗があっても、なおその後進の味方になることをいとわず、どこまでも後進をかばっていこうとするのを持ち前としている人である。このような先輩は、後進から非常な信頼を受け、慈母のように懐かれ慕われるものであるが、こうした先輩が果たして後進にとって本当の利益になるかどうかは、いささか疑問である。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否いかに欠点があっても、また失策しても、あくまで庇護してくれる先輩の懇篤なる親切心は、誠に有難いものであるに相違ないが、かかる先輩しかないということになれば、後進の奮発心を甚だしく沮喪させるものである。たとえ失策しても先輩が恕してくれる、甚だしきに至っては、いかなる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救ってくれるから、あらかじめ心配する必要は無いなど、至極暢気に構えて、事業に当たるにも綿密なる注意を欠いたり、軽躁な事をしたりするような後進を生ずるに至り、どうしても後進の奮発心を鈍らす事になるものである。これに反し、後進をガミガミ責めつけて、常に後進の揚足を取ってやろうやろうという気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬようにと心懸け、あの人に揚足を取られるような事があってはならぬから、と自然身持にも注意して不身持なことをせず、怠るようなことも慎み、一体に後進の身が締まるようになるものである。
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否他の種類はちょうどこれの正反対で、いつでも後進に対するに敵国の態度をもってし、後進の揚げ足を取ることばかりをあえてして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば、すぐガミガミと怒鳴りつけて、これを叱り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもすると、もう一切構いつけぬというほどに、つらく後進に当たる人である。かく一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるような事もあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、かかる先輩は果たして後進の利益にならぬものだろうか。この点は篤と青年子弟諸君において熟考せられて然るべきものだろうと思う。
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否ことに後進の揚げ足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、これを罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、これを悪しざまに言い罵り、「一体貴公の親からしてよろしくない」なぞとの語をよく口にしたがるものである。したがってかかる先輩の下にある後進は、もし一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立てなくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思うから、どうしても奮発する気になるものである。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
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『論語と算盤』処世と信条・争ひの可否世間には争いを絶対に排斥し、いかなる場合においても争いをするということはよろしくない、『人もしなんじの右の頬を打たば、左の頬をも向けよ』などと説く者もある。こんな次第で、他人と争いをするということは、処世上に果たして利益になるものだろうか、はたまた不利益を与えるものだろうか。この実際問題になれば、随分人によって意見が異なることだろうと思う。争いは決して排斥すべきでないと言うものがあるかと思えば、また絶対に排斥すべきものだと考えている人もある。私一己の意見としては、争いは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであろうかと信ずるのである。私に対し、世間ではあまりに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んでいるが、私はみだりに争うごとき事こそせざれ、世間の皆様たちがお考えになっているごとく、争いを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得ているほどに、そう円満な人間でもない。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝らしからぬ孝孝行孝行と、いかにも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしようとしての孝行は真実の孝行とは言われぬ。孝行ならぬ孝行が真実の孝行である。私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、お汁やご飯の小言を言ったりするのも、母は息子が山仕事から帰って来るのを見れば、さぞ疲れていることだろうと思い、「さぞ疲れたろう」と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬようにと、足を伸ばして揉んでもらい、また客人をもてなすについては、さぞ不行き届きで息子が不満足だろうと思って下さるものと察するから、その親切を無にせぬため、ご飯やお汁の小言までも言ったりするのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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