正法眼蔵随聞記 / 巻二
亦大宋宏智禪師の會下、天童は常住物千人の用途なり、然あれば堂中七百人堂外三百人にて、千人につもる、常住物なるに、好き長老の住したる故へに、諸方の僧雲集して、堂中千人なり、其外に五六百人あるなり、知事の人、宏智に訴へて云く、常住物は千人の分なり、衆僧多く集まりて用途不足なり、枉げてはなたれんと申しゝかば、宏智云く、人々みな口あり、汝ぢか事にあづからず、歎くこと莫れと云々、
新字:亦大宋宏智禅師の会下、天童は常住物千人の用途なり、然あれば堂中七百人堂外三百人にて、千人につもる、常住物なるに、好き長老の住したる故へに、諸方の僧雲集して、堂中千人なり、其外に五六百人あるなり、知事の人、宏智に訴へて云く、常住物は千人の分なり、衆僧多く集まりて用途不足なり、枉げてはなたれんと申しゝかば、宏智云く、人々みな口あり、汝ぢか事にあづからず、嘆くこと莫れと云々、
書き下し
亦大宋宏智禅師の会下、天童は常住物千人の用途なり、然あれば堂中七百人堂外三百人にて、千人につもる、常住物なるに、好き長老の住したる故へに、諸方の僧雲集して、堂中千人なり、其外に五六百人あるなり、知事の人、宏智に訴へて云く、常住物は千人の分なり、衆僧多く集まりて用途不足なり、枉げてはなたれんと申しゝかば、宏智云く、人々みな口あり、汝ぢか事にあづからず、嘆くこと莫れと云々、
現代語訳
また大宋の宏智禅師の会下、天童では常住物が千人分の費えであった。であるから堂の中に七百人、堂の外に三百人で、千人分に見積もった常住物であるのに、よい長老が住しておられたゆえに、諸方の僧が雲のように集まって、堂の中で千人になった。そのほかに五、六百人がいるのである。知事の人が宏智に訴えて言った。常住物は千人の分です。僧たちが多く集まって費えが足りません。まげてお放ちください、と申したところ、宏智が言った。人々にはみな口がある。おまえの関わることではない。嘆くな、と。
解説
この章句が説くこと
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