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六祖壇経 / 付嘱品第十

執空之人,有謗經直言不用文字,即云不用文字,人亦不合語言,只此語言,便是文字之相。又云直道不立文字,即此不立兩字,亦是文字,見人所說,便即謗他言著文字。汝等須知,自迷猶可,又謗佛經,不要謗經,罪障無數。若著相於外,而作法求真,或廣立道場,說有無之過患,如是之人,累劫不可見性,但聽依法修行,又莫百物不思,而於道性窒礙。若聽說不修,令人反生邪念,但依法修行,無住相法施。汝等若悟,依此說,依此用,依此行,依此作,即不失本宗。若有人問汝義,問有,將無對;問無,將有對;問凡,以聖對;問聖,以凡對。二道相因,生中道義,汝一問一對,餘問一依此作,即不失理也。設有人問:「何名為暗?」答云:「明是因,暗是緣,明沒則暗,以明顯晦,以暗顯明,來去相因,成中道義。餘問悉皆如此。」汝等於後傳法,依此轉相教授,勿失宗旨。』師於大極元年壬子延和七月命門人往新州國恩寺建塔,仍令促工。次年夏末落成。七月一日,集徒眾曰:『吾至八月,欲離世間,汝等有疑,早須相問,為汝破疑,令汝迷盡。吾若去後,無人教汝。』法海等聞,悉皆涕泣,惟有神會,神情不動,亦無涕泣。

新字:執空之人,有謗経直言不用文字,即云不用文字,人亦不合語言,只此語言,便是文字之相。又云直道不立文字,即此不立両字,亦是文字,見人所説,便即謗他言著文字。汝等須知,自迷猶可,又謗仏経,不要謗経,罪障無数。若著相於外,而作法求真,或広立道場,説有無之過患,如是之人,累劫不可見性,但聴依法修行,又莫百物不思,而於道性窒礙。若聴説不修,令人反生邪念,但依法修行,無住相法施。汝等若悟,依此説,依此用,依此行,依此作,即不失本宗。若有人問汝義,問有,将無対;問無,将有対;問凡,以聖対;問聖,以凡対。二道相因,生中道義,汝一問一対,余問一依此作,即不失理也。設有人問:「何名為暗?」答云:「明是因,暗是縁,明没則暗,以明顕晦,以暗顕明,来去相因,成中道義。余問悉皆如此。」汝等於後伝法,依此転相教授,勿失宗旨。』師於大極元年壬子延和七月命門人往新州国恩寺建塔,仍令促工。次年夏末落成。七月一日,集徒衆曰:『吾至八月,欲離世間,汝等有疑,早須相問,為汝破疑,令汝迷尽。吾若去後,無人教汝。』法海等聞,悉皆涕泣,惟有神会,神情不動,亦無涕泣。

書き下し

空に執するの人は、経を謗りて直ちに文字を用いずと言う有り。即ち文字を用いずと云わば、人も亦た合に語言すべからず。只だ此の語言、便ち是れ文字の相なり。又云う、直道は文字を立てずと。即ち此の不立の両字も、亦た是れ文字なり。人の説く所を見て、便即ち他を謗りて文字に著すと言う。汝等須らく知るべし、自ら迷うは猶お可なり、又仏経を謗る。経を謗ることを要せざれ、罪障無数なり。若し外に相に著して、法を作して真を求め、或いは広く道場を立てて、有無の過患を説く、是くの如きの人は、累劫にも性を見るべからず。但だ法に依りて修行するを聴け。又百物を思わずして、道性に於いて窒礙すること莫かれ。若し説くを聴きて修せずんば、人をして反って邪念を生ぜしむ。但だ法に依りて修行し、住相無き法施をせよ。汝等若し悟らば、此れに依りて説き、此れに依りて用い、此れに依りて行じ、此れに依りて作せば、即ち本宗を失わず。若し人有りて汝に義を問わば、有を問えば無を将て対し、無を問えば有を将て対し、凡を問えば聖を以て対し、聖を問えば凡を以て対せよ。二道相因りて、中道の義を生ず。汝一問に一対し、余の問も一に此れに依りて作さば、即ち理を失わざるなり。設し人有りて問わん、「何をか名づけて暗と為す」と。答えて云え、「明は是れ因、暗は是れ縁なり。明没すれば則ち暗なり。明を以て晦を顕し、暗を以て明を顕す。来去相因りて、中道の義を成す。余の問も悉く皆此くの如し」と。汝等後に法を伝うるに、此れに依りて転た相教授し、宗旨を失うこと勿かれ。』師、大極元年壬子、延和の七月に門人に命じて新州の国恩寺に往きて塔を建てしめ、仍お工を促さしむ。次の年の夏末に落成す。七月一日、徒衆を集めて曰く、『吾八月に至りて、世間を離れんと欲す。汝等疑い有らば、早く須らく相問うべし。汝が為に疑いを破り、汝が迷いをして尽きしめん。吾若し去りて後は、人の汝に教うる無からん』と。法海等聞きて、悉く皆涕泣す。惟だ神会のみ有りて、神情動かず、亦た涕泣すること無し。

現代語訳

空に執着する人の中には、経典を謗って、ただちに「文字は用いない」と言う者がいる。文字を用いないと言うのなら、人は言葉を話すこともできないはずだ。その話す言葉こそ、文字の相なのである。また「まっすぐな道は文字を立てない」とも言う。だが、この「不立」の二字もまた文字である。そういう者は、人が説くのを見ると、すぐにその人を謗って「文字に執着している」と言う。お前たちは知っておかねばならない。自分が迷うのはまだよい。そのうえ仏の経典を謗るのである。経典を謗ってはならない。その罪障は数えきれない。もし外に向かって相に執着し、手立てをこしらえて真理を求め、あるいは広く道場を建てて、有だ無だと過ちを論じたてる、そのような人は、どれほどの劫を経ても本性を見ることはできない。ただ法にしたがって修行することを聴け。また、何も思わないことにして、道の本性をかえって塞いではならない。もし説法を聴くだけで修行しなければ、人にかえって邪念を起こさせる。ただ法にしたがって修行し、相にとどまらない法の施しをせよ。お前たちがもし悟ったなら、これによって説き、これによって用い、これによって行じ、これによって作せば、本来の宗旨を失わない。もし人がお前に教えの意味を問うたなら、有を問えば無で答え、無を問えば有で答え、凡を問えば聖で答え、聖を問えば凡で答えよ。二つの道が互いに因となって、中道の意味が生まれる。お前たちが一つの問いに一つの対で答え、ほかの問いにもすべてこのやり方でするならば、道理を失うことはない。たとえば人が「暗とは何か」と問うたとする。こう答えよ。「明が因で、暗が縁である。明が消えれば暗となる。明によって暗をあらわし、暗によって明をあらわす。行き来して互いに因となり、中道の意味をなす。ほかの問いもみなこのとおりである」。お前たちがのちに法を伝えるときは、これによって順々に教え授け、宗旨を失ってはならない』。師は太極元年壬子(七一二年、この年延和と改元)の七月、門人に命じて新州(しんしゅう、慧能の故郷、今の広東省新興県)の国恩寺へ行かせて塔を建てさせ、工事を急がせた。翌年の夏の終わりに落成した。七月一日、師は門徒を集めて言った。『私は八月になれば、この世を去ろうと思う。お前たちに疑問があるなら、早く尋ねるがよい。お前たちのために疑いを破り、迷いを尽くしてやろう。私が去った後では、お前たちを教える者はいなくなる』。法海(ほうかい、壇経の編者とされる高弟)たちはこれを聞いて、みな涙を流して泣いた。ただ神会だけは顔色一つ変えず、泣くこともなかった。

解説

前半は、禅の「不立文字」を振りかざして経典を退ける者への戒めである。文字を用いないと言うその言葉がすでに文字であり、「不立」の二字もまた文字だと、慧能は鋭く突く。空に執着して経を謗るのは、相に執着するのと同じ偏りである。そのうえで、有を問われれば無で、凡を問われれば聖で答えよ、と問答の型を授ける。一方に寄った問いに対を示して中道を開く方法である。後半は死期の予告で、弟子たちが泣く中、神会だけが動じない。組織でも「形式は不要」「前例は無意味」と言い切る人が、その言い方自体に縛られていることがある。型を否定することも一つの型になりうると知っておきたい。

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