六祖壇経 / 護法品第九
簡曰:明喻智慧,暗喻煩惱,修道之人,倘不以智慧照破煩惱,無始生死,憑何出離?師曰:煩惱即是菩提,無二無別。若以智慧照破煩惱者,此是二乘見解,羊鹿等機,上智大根,悉不如是。使者可聽吾偈曰:「明暗皆方便,迷悟是假名。迷時名煩惱,悟處即菩提。自性本無惱,塵勞顯妙門。性中無二相,迷悟一心源。煩惱非須斷,菩提莫外尋。不住禪中寂,常行覺性圓。一念離分別,念念見佛心。」簡曰:如何是大乘見解?師曰:明與無明,凡夫見二;智者了達,其性無二,無二之性,即是實性。實性者:處凡愚而不減,在賢聖而不增,住煩惱而不亂,居禪定而不寂。不斷、不常、不來、不去,不在中間及其內外;不生、不滅,性相如如,常住不遷,名之曰道。簡曰:師曰不生不滅,何異外道?師曰:外道所說不生不滅者,將滅止生,以生顯滅,滅猶不滅,生說不生。我說不生不滅者,本自無生,今亦不滅,所以不同外道。汝若欲知心要,但一切善惡,都莫思量,自然得入清淨心體,湛然常寂,妙用恆沙。簡蒙指教,豁然大悟,禮辭歸闕,表奏師語。
新字:簡曰:明喩智慧,暗喩煩悩,修道之人,倘不以智慧照破煩悩,無始生死,憑何出離?師曰:煩悩即是菩提,無二無別。若以智慧照破煩悩者,此是二乗見解,羊鹿等機,上智大根,悉不如是。使者可聴吾偈曰:「明暗皆方便,迷悟是仮名。迷時名煩悩,悟処即菩提。自性本無悩,塵労顕妙門。性中無二相,迷悟一心源。煩悩非須断,菩提莫外尋。不住禅中寂,常行覚性円。一念離分別,念念見仏心。」簡曰:如何是大乗見解?師曰:明与無明,凡夫見二;智者了達,其性無二,無二之性,即是実性。実性者:処凡愚而不減,在賢聖而不增,住煩悩而不乱,居禅定而不寂。不断、不常、不来、不去,不在中間及其内外;不生、不滅,性相如如,常住不遷,名之曰道。簡曰:師曰不生不滅,何異外道?師曰:外道所説不生不滅者,将滅止生,以生顕滅,滅猶不滅,生説不生。我説不生不滅者,本自無生,今亦不滅,所以不同外道。汝若欲知心要,但一切善悪,都莫思量,自然得入清浄心体,湛然常寂,妙用恒沙。簡蒙指教,豁然大悟,礼辞帰闕,表奏師語。
書き下し
簡曰く、「明は智慧に喩え、暗は煩悩に喩う。修道の人、倘し智慧を以て煩悩を照破せずんば、無始の生死、何に憑りてか出離せん」と。師曰く、「煩悩即ち是れ菩提、無二無別なり。若し智慧を以て煩悩を照破する者は、此れは是れ二乗の見解、羊鹿等の機なり。上智大根は、悉く是くの如からず。使者、吾が偈を聴くべし。曰く、『明暗は皆方便、迷悟は是れ仮名。迷う時は煩悩と名づけ、悟る処は即ち菩提。自性は本より悩み無く、塵労は妙門を顕す。性中に二相無く、迷悟は一心の源なり。煩悩は断ずるを須いず、菩提は外に尋ぬる莫かれ。禅中の寂に住せず、常に覚性の円なるを行ず。一念分別を離るれば、念念に仏心を見る』」と。簡曰く、「如何なるか是れ大乗の見解」と。師曰く、「明と無明と、凡夫は二と見る。智者は了達して、其の性無二なり。無二の性、即ち是れ実性なり。実性とは、凡愚に処して減ぜず、賢聖に在りて増さず、煩悩に住して乱れず、禅定に居て寂ならず。断ならず、常ならず、来たらず、去らず、中間及び其の内外に在らず。生ぜず、滅せず、性相如如として、常住にして遷らず、之を名づけて道と曰う」と。簡曰く、「師の曰う不生不滅は、何ぞ外道に異ならん」と。師曰く、「外道の説く所の不生不滅は、滅を将て生を止め、生を以て滅を顕す。滅も猶お滅せず、生も不生と説く。我が説く不生不滅は、本自ら無生、今亦た滅せず。所以に外道に同じからず。汝若し心要を知らんと欲せば、但だ一切の善悪、都て思量する莫かれ。自然に清浄の心体に入るを得て、湛然として常に寂、妙用恒沙ならん」と。簡、指教を蒙りて、豁然として大悟し、礼辞して闕に帰り、師の語を表奏す。
現代語訳
薛簡は言った。「明るさは智慧にたとえ、暗さは煩悩にたとえる。道を修める人が、もし智慧によって煩悩を照らし破らなければ、始まりのない昔からの生死の輪廻から、何によって抜け出せようか」。師は言った。「煩悩がそのまま菩提であって、二つでも別のものでもない。もし智慧で煩悩を照らし破るというなら、それは二乗(声聞・縁覚)の見解であり、羊車・鹿車(小さな乗り物)程度の素質である。上等の智慧と大きな素質の人は、決してそうではない。使者よ、わが偈を聴け。『明と暗はどちらも方便、迷いと悟りはかりの名。迷うときは煩悩と名づけ、悟ったところはそのまま菩提。自性はもともと悩みがなく、塵のような苦労がかえって妙なる門をあらわす。本性の中に二つの相はなく、迷いも悟りも一つの心が源である。煩悩は断ち切る必要がなく、菩提を外に探し求めてはならない。禅定の静けさにとどまらず、常に円かな覚りの本性を行う。一念でも分別を離れれば、一念一念に仏の心を見る』」。薛簡は言った。「大乗の見解とはどのようなものか」。師は言った。「明と無明を、凡夫は二つと見る。智者はそれを見抜いて、その本性が二つでないことを知る。二つに分かれない本性、それがすなわち実性である。実性とは、凡夫や愚者のところにあっても減らず、賢者や聖者のところにあっても増えず、煩悩の中にあっても乱れず、禅定の中にあっても静まりきらない。断絶でもなく常住でもなく、来ることも去ることもなく、中間にもその内にも外にもない。生ずることもなく滅することもなく、本性も姿もありのままで、常にとどまって移ろわない。これを名づけて道という」。薛簡は言った。「師のおっしゃる不生不滅は、外道の説とどこが違うのか」。師は言った。「外道の説く不生不滅は、滅によって生を止め、生によって滅を示そうとするものだ。滅といってもなお滅しておらず、生を不生だと説いているにすぎない。私の説く不生不滅は、もともと生じておらず、今も滅しない。だから外道と同じではない。お前がもし心の要を知りたいなら、ただ一切の善も悪も、まったく思いはからってはならない。そうすれば自然に清浄な心の本体に入ることができ、深く澄んで常に静かであり、しかもその妙なる働きはガンジス川の砂の数ほど尽きないであろう」。薛簡は教えを受けて、からりと大いに悟り、礼を述べて辞去し宮中に帰って、師の言葉を奏上した。
解説
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『六祖壇経』護法品第九師云く、道に明暗無し。明暗は是れ代謝の義なり。明明として盡くること無きも、亦た是れ盡くること有り。相待して名を立つればなり。故に淨名經に云く、「法に比ぶこと有ること無し、相待無きが故に」と。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、我れ忍和尚の處に於て、一たび聞くや言下に便ち開悟し、頓に真如の本性を見る。是を以て此の教法を將て流行し、學道の者をして頓に菩提を悟り、各自に心を觀じ、自ら本性を見せしむ。若し自ら悟らずんば、大善知識の最上乘の法を解する者を覓めて、直ちに正路を示さしむるを須ゐよ。是れ善知識に大因緣有り。所謂る化導して見性を得しむ。一切の善法は、善知識に因りて能く發起するが故なり。三世の諸佛、十二部經は、人の性中に在りて本より自ら具有す。自ら悟る能はずんば、須らく善知識の指示を求めて方に見るべし。若し自ら悟る者は、外に求むるを假らず。若し一向に執して『他の善知識を須ゐて、解脫を得んことを望む』と謂ふ者は、是の處有ること無し。何を以ての故に。自心の內に有り、知識ありて自ら悟ればなり。若し邪迷を起こし、妄念顛倒せば、外の善知識に教授有りと雖も、救ふこと得べからず。若し真正の般若觀照を起こさば、一剎那の間に、妄念俱に滅す。若し自性を識らば、一悟すれば即ち佛地に至る。
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『六祖壇経』般若品第二善知識、迷人は口に念じ、念ずる時に当りて、妄有り非有り。念念に若し行ぜば、是れを真性と名づく。此の法を悟る者は、是れ般若の法なり。此の行を修する者は、是れ般若の行なり。修せざれば即ち凡なり。一念修行すれば、自身仏に等し。善知識、凡夫即ち仏、煩悩即ち菩提なり。前念迷へば即ち凡夫、後念悟れば即ち仏なり。前念境に著すれば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。善知識、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上最第一なり。住無く往無く亦来無し、三世の諸仏、中より出づ。当に大智慧を用ひて、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。此の如く修行せば、定んで仏道を成じ、三毒を変じて戒定慧と為す。善知識、我が此の法門は、一般若より八万四千の智慧を生ず。何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。若し塵労無くば、智慧常に現じ、自性を離れず。此の法を悟る者は、即ち是れ無念・無憶・無著なり。誑妄を起さず、自らの真如の性を用ひ、智慧を以て観照し、一切法に於て取らず捨てず。即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。善知識、若し甚深の法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、須らく般若の行を修すべし。金剛般若経を持誦せば、即ち見性することを得。当に知るべし、此の経の功徳は無量無辺にして、経中に分明に讃歎す、具さに説く能はず。此の法門は是れ最上乗、大智の人の為に説き、上根の人の為に説く。小智小根の人は聞きて、心に不信を生ず。何を以ての故に。譬へば天龍の閻浮提に雨を下すに、城邑聚落、悉皆漂流して、草葉を漂はすが如し。若し大海に雨ふらせば、増さず減らず。若し大乗の人、若し最上乗の人は、金剛経を説くを聞きて、心開け悟解するが故に、本性に自ら般若の智有るを知り、自ら智慧を用ひて、常に観照するが故に、文字を仮らず。
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『六祖壇経』護法品第九神竜元年上元の日、則天・中宗詔して云う、「朕、安・秀の二師を請じて、宮中に供養し、万機の暇に、毎に一乗を究む。二師推譲して云う、『南方に能禅師有り、密かに忍大師の衣法を授かり、仏の心印を伝う、彼に請いて問うべし』と。今、内侍薛簡を遣わし、詔を馳せて迎請す。願わくは師慈念もて、速やかに上京に赴かれよ」と。師、表を上りて疾を辞し、林麓に終えんことを願う。薛簡曰く、「京城の禅徳皆云う、『道を会せんと欲得せば、必ず須らく坐禅して定を習うべし。若し禅定に因らずして解脱を得る者は、未だ之有らざるなり』と。未審し、師の説く所の法は如何」と。師曰く、「道は心に由りて悟る、豈に坐に在らんや。経に云う、『若し如来は若しくは坐し若しくは臥すと言わば、是れ邪道を行ずるなり』と。何の故ぞ。従りて来る所無く、亦た去る所無し。無生・無滅、是れ如来の清浄禅なり。諸法の空寂、是れ如来の清浄坐なり。究竟して証すること無し、豈に況んや坐をや」と。簡曰く、「弟子京に回らば、主上必ず問わん。願わくは師慈悲もて心要を指示したまえ、両宮、及び京城の道を学ぶ者に伝奏せん。譬えば一灯の、百千の灯を然して、冥き者皆明らかに、明明として尽くること無きが如し」と。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『六祖壇経』懺悔品第六智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
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