六祖壇経 / 護法品第九
師云:道無明暗,明暗是代謝之義;明明無盡,亦是有盡,相待立名。故淨名經云:「法無有比,無相待故。」
新字:師云:道無明暗,明暗是代謝之義;明明無尽,亦是有尽,相待立名。故浄名経云:「法無有比,無相待故。」
書き下し
師云く、道に明暗無し。明暗は是れ代謝の義なり。明明として盡くること無きも、亦た是れ盡くること有り。相待して名を立つればなり。故に淨名經に云く、「法に比ぶこと有ること無し、相待無きが故に」と。
現代語訳
慧能は言った。道に明暗はない。明と暗とは、入れ替わるということにすぎない。明るさが尽きることなく続くように見えても、それもまた尽きることがある。互いを待って名前が立てられているからだ。だから『浄名経(維摩経)』に「法には比べるものがない、相待するものがないからだ」とある。
解説
朝廷から派遣された使者・薛簡が、都の禅師たちは「明るさと暗さ」の譬えで悟りを説くと述べたのに対する答えである。慧能は前提を外す。「道に明暗無し」。明と暗は、互いに相手があってはじめて成り立つ名前だ——「相待して名を立つればなり」。明るさは暗さがあるから明るく、暗さは明るさがあるから暗い。どちらも単独では存在しない。だから道をそのどちらかに割り当てることができない。「明明として盡くること無きも、亦た是れ盡くること有り」——尽きない明るさに見えても、対概念を持つ以上いつか尽きる。維摩経の「法に比ぶこと有ること無し」を引いて締める。比較の中に置いたものは、比較の相手が消えれば消える。この短い一段は、対立概念で世界を説明することの限界を突いていて、次の付嘱品「三十六対」——対概念を使いこなす作法——への布石にもなっている。
この章句が説くこと
道無明暗相待立名薛簡法無有比
関連する章句
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『六祖壇経』護法品第九簡曰く、「明は智慧に喩え、暗は煩悩に喩う。修道の人、倘し智慧を以て煩悩を照破せずんば、無始の生死、何に憑りてか出離せん」と。師曰く、「煩悩即ち是れ菩提、無二無別なり。若し智慧を以て煩悩を照破する者は、此れは是れ二乗の見解、羊鹿等の機なり。上智大根は、悉く是くの如からず。使者、吾が偈を聴くべし。曰く、『明暗は皆方便、迷悟は是れ仮名。迷う時は煩悩と名づけ、悟る処は即ち菩提。自性は本より悩み無く、塵労は妙門を顕す。性中に二相無く、迷悟は一心の源なり。煩悩は断ずるを須いず、菩提は外に尋ぬる莫かれ。禅中の寂に住せず、常に覚性の円なるを行ず。一念分別を離るれば、念念に仏心を見る』」と。簡曰く、「如何なるか是れ大乗の見解」と。師曰く、「明と無明と、凡夫は二と見る。智者は了達して、其の性無二なり。無二の性、即ち是れ実性なり。実性とは、凡愚に処して減ぜず、賢聖に在りて増さず、煩悩に住して乱れず、禅定に居て寂ならず。断ならず、常ならず、来たらず、去らず、中間及び其の内外に在らず。生ぜず、滅せず、性相如如として、常住にして遷らず、之を名づけて道と曰う」と。簡曰く、「師の曰う不生不滅は、何ぞ外道に異ならん」と。師曰く、「外道の説く所の不生不滅は、滅を将て生を止め、生を以て滅を顕す。滅も猶お滅せず、生も不生と説く。我が説く不生不滅は、本自ら無生、今亦た滅せず。所以に外道に同じからず。汝若し心要を知らんと欲せば、但だ一切の善悪、都て思量する莫かれ。自然に清浄の心体に入るを得て、湛然として常に寂、妙用恒沙ならん」と。簡、指教を蒙りて、豁然として大悟し、礼辞して闕に帰り、師の語を表奏す。
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『六祖壇経』付嘱品第十空に執するの人は、経を謗りて直ちに文字を用いずと言う有り。即ち文字を用いずと云わば、人も亦た合に語言すべからず。只だ此の語言、便ち是れ文字の相なり。又云う、直道は文字を立てずと。即ち此の不立の両字も、亦た是れ文字なり。人の説く所を見て、便即ち他を謗りて文字に著すと言う。汝等須らく知るべし、自ら迷うは猶お可なり、又仏経を謗る。経を謗ることを要せざれ、罪障無数なり。若し外に相に著して、法を作して真を求め、或いは広く道場を立てて、有無の過患を説く、是くの如きの人は、累劫にも性を見るべからず。但だ法に依りて修行するを聴け。又百物を思わずして、道性に於いて窒礙すること莫かれ。若し説くを聴きて修せずんば、人をして反って邪念を生ぜしむ。但だ法に依りて修行し、住相無き法施をせよ。汝等若し悟らば、此れに依りて説き、此れに依りて用い、此れに依りて行じ、此れに依りて作せば、即ち本宗を失わず。若し人有りて汝に義を問わば、有を問えば無を将て対し、無を問えば有を将て対し、凡を問えば聖を以て対し、聖を問えば凡を以て対せよ。二道相因りて、中道の義を生ず。汝一問に一対し、余の問も一に此れに依りて作さば、即ち理を失わざるなり。設し人有りて問わん、「何をか名づけて暗と為す」と。答えて云え、「明は是れ因、暗は是れ縁なり。明没すれば則ち暗なり。明を以て晦を顕し、暗を以て明を顕す。来去相因りて、中道の義を成す。余の問も悉く皆此くの如し」と。汝等後に法を伝うるに、此れに依りて転た相教授し、宗旨を失うこと勿かれ。』師、大極元年壬子、延和の七月に門人に命じて新州の国恩寺に往きて塔を建てしめ、仍お工を促さしむ。次の年の夏末に落成す。七月一日、徒衆を集めて曰く、『吾八月に至りて、世間を離れんと欲す。汝等疑い有らば、早く須らく相問うべし。汝が為に疑いを破り、汝が迷いをして尽きしめん。吾若し去りて後は、人の汝に教うる無からん』と。法海等聞きて、悉く皆涕泣す。惟だ神会のみ有りて、神情動かず、亦た涕泣すること無し。
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『六祖壇経』付嘱品第十師、一日門人法海・志誠・法達・神會・智常・智通・志徹・志道・法珍・法如等を喚びて曰く、『汝等は餘人と同じからず。吾が滅度の後、各〻一方の師と為らん。吾れ今汝に説法を教へて、本宗を失はざらしめん。先づ須らく三科の法門を舉げ、動用は三十六對、出沒すれば即ち兩邊を離るべし。一切の法を説くに自性を離るること莫かれ。忽ち人有りて汝に法を問はば、語を出だすこと盡く雙にし、皆な對法を取り、來去相ひ因れ。究竟には三法盡く除き、更に去る處無し』と。
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『六祖壇経』護法品第九神竜元年上元の日、則天・中宗詔して云う、「朕、安・秀の二師を請じて、宮中に供養し、万機の暇に、毎に一乗を究む。二師推譲して云う、『南方に能禅師有り、密かに忍大師の衣法を授かり、仏の心印を伝う、彼に請いて問うべし』と。今、内侍薛簡を遣わし、詔を馳せて迎請す。願わくは師慈念もて、速やかに上京に赴かれよ」と。師、表を上りて疾を辞し、林麓に終えんことを願う。薛簡曰く、「京城の禅徳皆云う、『道を会せんと欲得せば、必ず須らく坐禅して定を習うべし。若し禅定に因らずして解脱を得る者は、未だ之有らざるなり』と。未審し、師の説く所の法は如何」と。師曰く、「道は心に由りて悟る、豈に坐に在らんや。経に云う、『若し如来は若しくは坐し若しくは臥すと言わば、是れ邪道を行ずるなり』と。何の故ぞ。従りて来る所無く、亦た去る所無し。無生・無滅、是れ如来の清浄禅なり。諸法の空寂、是れ如来の清浄坐なり。究竟して証すること無し、豈に況んや坐をや」と。簡曰く、「弟子京に回らば、主上必ず問わん。願わくは師慈悲もて心要を指示したまえ、両宮、及び京城の道を学ぶ者に伝奏せん。譬えば一灯の、百千の灯を然して、冥き者皆明らかに、明明として尽くること無きが如し」と。
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『六祖壇経』付嘱品第十『三科の法門とは、陰・界・入なり。陰は是れ五陰、色・受・想・行・識是れなり。入は是れ十二入、外の六塵、色・声・香・味・触・法、内の六門、眼・耳・鼻・舌・身・意是れなり。界は是れ十八界、六塵・六門・六識是れなり。自性能く万法を含む、含蔵識と名づく。若し思量を起こせば、即ち是れ転識なり。六識を生じ、六門を出で、六塵を見る。是くの如き一十八界は、皆自性より用を起こす。自性若し邪ならば、十八の邪を起こし、自性若し正ならば、十八の正を起こす。悪を含みて用うれば即ち衆生の用、善もて用うれば即ち仏の用なり。用は何等に由る、自性に由りて有り。』『対法の外境に、無情の五対あり。天と地と対し、日と月と対し、明と暗と対し、陰と陽と対し、水と火と対す、此れは是れ五対なり。法相語言に十二対あり。語と法と対し、有と無と対し、有色と無色と対し、有相と無相と対し、有漏と無漏と対し、色と空と対し、動と静と対し、清と濁と対し、凡と聖と対し、僧と俗と対し、老と少と対し、大と小と対す、此れは是れ十二対なり。自性の起用に十九対あり。長と短と対し、邪と正と対し、痴と慧と対し、愚と智と対し、乱と定と対し、慈と毒と対し、戒と非と対し、直と曲と対し、実と虚と対し、険と平と対し、煩悩と菩提と対し、常と無常と対し、悲と害と対し、喜と嗔と対し、捨と慳と対し、進と退と対し、生と滅と対し、法身と色身と対し、化身と報身と対す、此れは是れ十九対なり。』師言う、『此の三十六対法、若し解して用いれば、即ち一切の経法に通貫し、出入に即ち両辺を離る。自性の動用、人と共に言語するに、外は相に於いて相を離れ、内は空に於いて空を離る。若し全く相に著すれば、即ち邪見を長じ、若し全く空に執すれば、即ち無明を長ず。
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