六祖壇経 / 般若品第二
善知識,迷人口念,當念之時,有妄有非。念念若行,是名真性。悟此法者,是般若法;修此行者,是般若行;不修即凡。一念修行,自身等佛。善知識,凡夫即佛,煩惱即菩提。前念迷,即凡夫;後念悟,即佛。前念著境,即煩惱;後念離境,即菩提。善知識,摩訶般若波羅蜜,最尊最上最第一,無住無往亦無來,三世諸佛從中出。當用大智慧,打破五蘊煩惱塵勞。如此修行,定成佛道,變三毒為戒定慧。善知識,我此法門,從一般若,生八萬四千智慧。何以故?為世人有八萬四千塵勞。若無塵勞,智慧常現,不離自性。悟此法者,即是無念、無憶、無著。不起誑妄,用自真如性,以智慧觀照;於一切法,不取不舍。即是見性成佛道。善知識,若欲入甚深法界,及般若三昧者,須修般若行。持誦《金剛般若經》即得見性,當知此經,功德無量無邊,經中分明讚歎,莫能具說。此法門是最上乘,為大智人說,為上根人說。小智小根人聞,心生不信。何以故?譬如天龍下雨於閻浮提,城邑聚落,悉皆漂流,如漂草葉,若雨大海,不增不減。若大乘人,若最上乘人,聞說《金剛經》,心開悟解故,知本性自有般若之智,自用智慧,常觀照故,不假文字。
新字:善知識,迷人口念,当念之時,有妄有非。念念若行,是名真性。悟此法者,是般若法;修此行者,是般若行;不修即凡。一念修行,自身等仏。善知識,凡夫即仏,煩悩即菩提。前念迷,即凡夫;後念悟,即仏。前念著境,即煩悩;後念離境,即菩提。善知識,摩訶般若波羅蜜,最尊最上最第一,無住無往亦無来,三世諸仏従中出。当用大智慧,打破五蘊煩悩塵労。如此修行,定成仏道,変三毒為戒定慧。善知識,我此法門,従一般若,生八万四千智慧。何以故?為世人有八万四千塵労。若無塵労,智慧常現,不離自性。悟此法者,即是無念、無憶、無著。不起誑妄,用自真如性,以智慧観照;於一切法,不取不舎。即是見性成仏道。善知識,若欲入甚深法界,及般若三昧者,須修般若行。持誦《金剛般若経》即得見性,当知此経,功徳無量無辺,経中分明讃嘆,莫能具説。此法門是最上乗,為大智人説,為上根人説。小智小根人聞,心生不信。何以故?譬如天竜下雨於閻浮提,城邑聚落,悉皆漂流,如漂草葉,若雨大海,不增不減。若大乗人,若最上乗人,聞説《金剛経》,心開悟解故,知本性自有般若之智,自用智慧,常観照故,不仮文字。
書き下し
善知識、迷人は口に念じ、念ずる時に当りて、妄有り非有り。念念に若し行ぜば、是れを真性と名づく。此の法を悟る者は、是れ般若の法なり。此の行を修する者は、是れ般若の行なり。修せざれば即ち凡なり。一念修行すれば、自身仏に等し。善知識、凡夫即ち仏、煩悩即ち菩提なり。前念迷へば即ち凡夫、後念悟れば即ち仏なり。前念境に著すれば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。善知識、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上最第一なり。住無く往無く亦来無し、三世の諸仏、中より出づ。当に大智慧を用ひて、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。此の如く修行せば、定んで仏道を成じ、三毒を変じて戒定慧と為す。善知識、我が此の法門は、一般若より八万四千の智慧を生ず。何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。若し塵労無くば、智慧常に現じ、自性を離れず。此の法を悟る者は、即ち是れ無念・無憶・無著なり。誑妄を起さず、自らの真如の性を用ひ、智慧を以て観照し、一切法に於て取らず捨てず。即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。善知識、若し甚深の法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、須らく般若の行を修すべし。金剛般若経を持誦せば、即ち見性することを得。当に知るべし、此の経の功徳は無量無辺にして、経中に分明に讃歎す、具さに説く能はず。此の法門は是れ最上乗、大智の人の為に説き、上根の人の為に説く。小智小根の人は聞きて、心に不信を生ず。何を以ての故に。譬へば天龍の閻浮提に雨を下すに、城邑聚落、悉皆漂流して、草葉を漂はすが如し。若し大海に雨ふらせば、増さず減らず。若し大乗の人、若し最上乗の人は、金剛経を説くを聞きて、心開け悟解するが故に、本性に自ら般若の智有るを知り、自ら智慧を用ひて、常に観照するが故に、文字を仮らず。
現代語訳
善知識よ、迷った人は口で念じるが、念じているその時にも偽りや誤りがある。一念一念に行っていくなら、それを真の本性という。この法を悟ることが般若の法であり、この行を修めることが般若の行である。修めなければ凡夫のままだ。一念でも修行すれば、その身は仏に等しい。善知識よ、凡夫がそのまま仏であり、煩悩がそのまま菩提(悟り)である。前の一念が迷えば凡夫であり、後の一念が悟れば仏である。前の一念が対象にとらわれれば煩悩であり、後の一念が対象を離れれば菩提である。善知識よ、摩訶般若波羅蜜は最も尊く、最も上で、最も第一である。とどまることも去ることも来ることもなく、過去・現在・未来の諸仏はみなここから出る。大いなる智慧を用いて、五蘊(身心を成す五つの要素)の煩悩や塵労(心を汚す煩い)を打ち破らなければならない。このように修行すれば必ず仏道を成し遂げ、三毒(貪り・怒り・愚かさ)を戒・定・慧に変えることができる。善知識よ、私のこの法門は、一つの般若から八万四千の智慧を生む。なぜか。世の人には八万四千の塵労があるからだ。もし塵労がなければ、智慧は常に現れ、自らの本性を離れない。この法を悟った者は、念にとらわれず、思い返しにとらわれず、執着しない。偽りを起こさず、自らの真如(ありのままの真実)の本性を用い、智慧によって照らし見て、あらゆるものについて取りも捨てもしない。これが本性を見て仏道を成し遂げることである。善知識よ、もし奥深い法界と般若三昧(智慧に徹した境地)に入りたいなら、般若の行を修めなければならない。『金剛般若経』を保ち誦えれば本性を見ることができる。知っておくがよい。この経の功徳は限りなく、経の中でもはっきりと称えられていて、詳しく説き尽くすことはできない。この法門は最上の教えであり、大いなる智慧の人のために説き、すぐれた素質の人のために説くものである。智慧の小さい人、素質の小さい人が聞くと、心に不信を起こす。なぜか。たとえば天の龍が閻浮提(人間の住む世界)に雨を降らせると、町や村はみな押し流され、草の葉が漂うようになる。だが大海に雨を降らせても、増えも減りもしない。もし大乗の人、最上乗の人が『金剛経』の説法を聞けば、心が開けて悟るから、本性におのずから般若の智慧があることを知り、自ら智慧を用いて常に照らし見るので、文字に頼る必要がない。
解説
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